『年齢偏差解消、および総人口維持を目指す暫定無期限特別立法』

 講義室のホワイトボードにそう書いて講師はこっち側に向き直った。チョークの粉が付いた指先を白衣の裾で拭き講義室を見回す。
 全員お揃いのセーラー服に身を包んだ女の子が真剣なまなざしでそれを見ている。
 講師は指示棒でホワイトボードを指しながら解説を始めた。

「一般にTS法と呼ばれている法律の正式名称はこうなります。長ったらしいものですからTS法と呼ばれますがね。
暫定無期限としている通り、本来は目的を達成したあとで効力を失う時限立法です。
ただしこの法による大幅な人権侵害を伴った特別措置、つまり、あなた方のように性転換を強制してまで出生率を上げる措置をとる以上は最後まで面倒を見る必 要があります」

 講師はそこで再びホワイトボードへと向きを代え綺麗な字でさらさらと書き始めた。

 1:特別立法における被験者の義務と責任と権利の保障
 2:特別立法による被験者の生涯にわたる保護
 3:特別立法での税制上および福利厚生における優遇措置

「ここから先は非常に重要な問題になります。そしてこれはあなた達被験者の義務でもあり権利でもある選択権行使の担保になります。
いいですか? 非常に重要です、間違った使い方をするとあなた達が選んだ相手……つまり、この法律における交配行為対象の人権をも奪い取る危険性がありま す」

 そう言って再び黒板にホワイトボードの黒い文字が増えていく。

 1:被験者は交渉対象となる人物に対し、明確に性行為の同意を伝えなければならない。
 2:被験者の選択した交渉対象の拒否は、可能な限り尊重しなければならない
 3:被験者の交渉対象に関する要望は、交渉対象より被験者の要望を無制限に優先とするが、授産の目的を失ってはならない。

「表現が分かりにくいですね。分かりやすく説明するには相手の立場から見た表現が手っ取り早いです。
要するに、あなた達の交配相手・性行為の相手はあなた達が直接指名する権利を持っています。指名された側は拒否できません。
そして行為自体は徹頭徹尾あなた達の要望が優先されます。何時どこでどうやって、です。好きなように出来ます。
しかしあなた達は子供を生む事が義務なのです。ですから避妊の要望などあってはならないのです。
それらが管理官によって摘発された場合、非常に残念ながら……あなた達の選んだ相手が一方的に断罪されてしまいます」

 講師はもう一度講義室を見回したあと、薄笑いを浮かべながら言葉を続けた。今まで無表情だった講師の表情あまり気持ちの良いものではなかった。

「人間関係と言うものは不思議なもので、水と油などと表現するようにどうしても無意識に避けてしまう人が世の中にはいるのです。
しかし、だからと言ってその人が嫌いだからといって、管理官の眼を上手くごまかして相手を罠に嵌めたらどうなるでしょう?
自分には苦手なその人物も自分以外の誰かには相性の良い人物かもしれません。ここに居るあなた達はみんな家族です。特別法によって過酷な義務を負ってし まった特別な人たちです。
言いたい事も快く思わない事も、いろんな事を思うでしょう。でも、自分以外のTS法被験者を大事にしてあげてください。
そうすれば自分以外のTS法被験者から自分が大切にされます。思いやりの心を持ってください」

 講師はホワイトボードを裏返し真っ白な面を用意した。講演台のスイッチを押すと天井からプロジェクターが下りてくる。
まばゆい光がホワイトボードに注がれ画像が浮かび上がった。

「これは過去実際にあったケースです。TS法は最初から完成された法律ではありませんでした」
 
 そういって講師は画像を次々と変えながら一気にしゃべり続ける。
 TS法初期段階では24時間で性転換が行われ、生理受胎能力が安定しないままに学園へ送り込まれた事。性行為の直前に薬剤を母体へ投与して強制的に排卵 させ受胎させた事。
 それに伴う先天性異常児の誕生が相次いだ事。また、母体の負担が大きくTS法被験者の義務達成後平均寿命が15年程度だった事。

 あまりに過酷な運命がTS法の改正論議を白熱させ、それに伴いこのような施設が全国に数箇所設置され、自然排卵が出来るようになるまで時間を掛けるよう になったこと。
 また、TS法の影の部分が嫌でも取り上げられた。
 25歳までに4児を設けるためアングラの受胎産業が横行した事や、TS不能者と呼ばれる女性に興味を示さなくなってしまった男性の誕生などだ。
 そして被験者の交渉対象となる子供達も精神が未熟故に自制が効かず暴走し、強姦行為に及んでしまった結果がどうなったのか……などなど。

 講義室は静まり返っていた。たった数時間の間に法律上の知識を覚えろと言ってもなかなか難しい事だ。
弁護士でも目指すような秀才ならともかく、彼女達は女性に生まれ変わって1年も経ってないごく普通の子供達なのだ。
 しかし、そうはいっても時代の要請は切羽詰っている。2050年から始まったTS法による特別措置も既に30年を経過している。
彼女達は法整備の進んだ現代で被験者となった事を感謝するだろうか……

 講師は講義室の椅子に座る彼女達を見ながら複雑な感情にかられていた。なぜなら、講師の女性自身が2063年度のTS法被験者なのだから。

「さて、義務と権利に関する部分はひとまず終わります。次はあなた達の人生についてです」

 講師は再びスイッチを操作した。ピクチャーサインを使った分かりやすい図が表示される。

「いいですか? TS法によりあなた達は20歳までに2児を出産しなければいけません」

「そして出来るなら25歳までにあと2児、つまり10年で4児を出産する事が望ましいです。
2045年度のデータですが、この時点で女性一人当たりの出産率は0.5を割り込み0.48になりました。つまり女性4人をもってして二人しか子供が生ま れなかったのです」
 
「あなた達の先輩方の身を削る努力によって2075年度では出生率が2.24になりました。速報値で正確ではありませんが2079年では3を越えました。
TS被験者の平均出産数は昨年度までの平均で4を越えています。いうなれば、目標達成は案外簡単と言うことですね」

「4児以上を設けた場合、あなた達はTS法における褒章的最恵待遇措置という扱いになります。
税金を納める義務がなくなります。これは一部の受益者負担税を除きすべての税金が免除になります。国公立機関や施設の利用料もすべて無料になります。
また、一部の例外を除いて多くの企業で優先就職措置が受けられます。希望すればTS法に関連する機関や施設への就職も出来ますし育児機関での保母さんも出 来ますよ」

「そしてこれ以外にも多くの特別な権利が生まれますが……まぁ段々そのありがたみが実感出来るようになります。まずは目標達成を目指しましょうね」

 そこまで言うと講師はホワイトボード脇のスイッチを押して文字を消し去ってしまった。講義室の中に外からの光が入り込む。

「はい今日の講義はここまで! さぁ、食事にしましょう」

 生徒となっていたTS法被験者の女の子達が外へと歩いていく。どこにでもあるような学校の一シーンだが、その中身は大きく違っていた。
 疲れきった表情の香織はボーっとしたまま椅子に座っていた。講義室の中がほとんど居なくなっても立ち上がれなかった。
ある意味であまりにショッキングな講義だっただからだろうか……心配そうに沙織が覗き込む。

「香織、だいじょうぶ? 疲れた? メディカルルーム行く?」

 心配そうに見つめる沙織へ微笑みを返し香織は立ち上がった。

「大丈夫だよ、ちょっと疲れただけ。だって……」

 そういって恥ずかしそうに下を向いたままボソッと言葉をつなげる。

「昨日の夜の沙織、凄かったんだもん……」

 沙織は満足そうに微笑みを浮かべつつ意地悪に言葉を返す。

「全部分かっていて階段2往復もしてからベットに飛び込んできたでしょ。自業自得じゃない」

 二人は無言で笑ったあと食堂へと歩いていった。長い長い一日を終えてから既に2週間、時計もカレンダーも無いこの施設の中では日付の感覚が希薄になるよ うに細工されている。
 自立的に生理サイクルを安定させるための措置らしいが、効果のほどは担当者も実際良く分かっていないらしい。

 二人が食堂に着くと既に他の女の子で溢れかえっていた。今日のメニューはチーズたっぷりのシーザーサラダに、黒ゴマの風味が効いたパストラミサンド。
ドリンクは絞りたての新鮮なオレンジジュースか今朝搾乳された牛乳。
 デザートパックはサワークリームとドライフルーツの乗ったクラッカーに、イチゴ風味のシャーベットか餡子のたっぷり入った栗ぜんざい。
 食堂の中は既に甘い匂いで充満している。すっぱい匂いが紛れているのは、大きな皿に載せられた半分割りされているグレープフルーツの匂いだろうか。

 沙織は香織と一緒にトレーを持ってテイクゾーンを歩いていく。供食担当の女の子がかわいいアップリケの付いたエプロンをしてサラダを取り分けてくれる。
 パストラミサンドのオニオンが苦手な沙織は受け取ったサンドを空けてオニオンを抜いてしまう。それを見て香織は笑っていた。

「好き嫌いする女は嫌われるんだってよ!」

 香織の鋭い舌鋒が沙織に襲い掛かる。沙織はアカンベーをしながら応える。

「たまねぎだけは人間が食べるものじゃ無いわね」
「そんな事言って……せっかく作ってくれた人に悪いじゃん!」
「あ! またジャン言葉が出た!」
「仕方ないでしょ、染み付いてるんだから……」
「染みが付いてるの?」
「沙織の馬鹿!」

 文字にすると険悪なムードだが当人達は笑っている。それどころか周りの女の子も貰い笑いしている。なんとも言えず幸せな光景がそこにあった。

「沙織! 香織! こっちこっち!!」

 5列ほど向こうのテーブルから手招きする集団が居る。同じ24号煉の女の子達だ。
 隣の部屋の岬&早百合ペアに向かいの部屋の瑞穂と飛鳥のペア、そして雅美が隣で微笑んでいる。
 沙織と香織は笑いながら小走りで移動する。およそ200人が同時に食事をする食堂なので作りは広く大きい。
なるべく埃を立てないように、傍目に美しく立ち振る舞えるように。
 ここの施設ではすべてに女性らしさを求める教育が施される、それはとにもかくにも、当人達が自然に女性であると認識するようにするためだ。
 そして、世に出て行った時にも女性として扱われることに何の疑問も持たなくなるまで徹底して行われる。
15年を男として育ってきた彼女達だったが、沢山の女性に囲まれて女性としての扱いを受ける内に感覚が切り替わっていくらしい。
 事実この時、トレーを持って走る沙織を香織はたしなめている。

「さおりぃ〜、ダメじゃん! トレー持っていたら走ると変だよ」

 そういって静々と歩く姿は十分さまになっている。
 二人の会話は下手な立会い漫才よりよほど面白いらしい。岬が椅子を引いて二人を座らせると、人差し指で沙織のほほをツンツンする。

「香織にまたしかられてるねぇ〜。先輩の威厳ないなぁ〜」
 周りがどっと笑う。
 香織は笑いながら沙織の耳元に唇を寄せて、そっと舌で沙織の耳たぶを舐めた。沙織はゾクっとしたような表情を浮かべて香織の手を握る。
「香織、だめ!」
 周りは笑っている。
 眼を細めた香織は沙織にも聞こえるように岬に言う。

「いえいえ、私は愛する沙織先輩の隅々までご奉仕させていただきましたから」

 周りはキャ〜っと嬌声を上げて口々に言う。

「ねぇ、こんどルームパートナーをスワップしようよ!」

 どうするって表情で見つめる香織。沙織は意地悪な笑顔を見せながら回りに言う。

「私の香織はダメです! 私だけだから!」
「代わりに私が行ってあげるけど、どう?」

 一部始終を端から眺めていた雅美は会話の流れが一瞬切れたところで言葉を挟む。

「早く食事を済ませなさいね。そうしないと──」
 周りはいっせいに雅美を見る。

「そうしないと、香織は今晩私の部屋にお泊りよ」

 雅美はゆっくり舌なめずりしながら香織を見た。それだけでゾクゾクして香織は動きが固まってしまう。沙織は隣から肘で突っつく。

「もうだめね、ロックオンよ。とっととご飯たべて午後の講義聞きに行こうね。今夜は香織無しかぁ」
 周りに囃し立てられる沙織だったが、香織は沙織の心からの寂しそうな表情だけで体が熱くなっているのに気が付いた。

 ……沙織は私が好きなんだ

  ◇◆◇

 午後の光が大きな窓から射し込む大講堂の中は、思っている以上に暑くはない。
 寒冷地帯に立地する施設であること、周囲の森を抜けてくる風が天然のクーラーで冷やされていること。
 そして何より、汗ばむような陽気になると彼女たちの精神が、短時間の安定ですら保てない事などを考慮した作りになっているせいだろう。
 眩しく輝く太陽は明らかに天頂を通り過ぎ、遠くの山並みへ向かって高度を下げつつあった。
 日没前の時間を使って大講堂の中に、施設内のTSレディが全て集められ午後の講義が行われている。

「……ですから、女性にしかない器官である子宮や卵巣といった部分の入り口は清潔に保たないといけません。膣内衛生環境の悪化は子宮内環境の悪化です。
そして様々な女性特有の病気を引き起こします。非常に危険な子宮筋腫や内膜症といった物も感染症からの発展がありえます」

 そこまで言って衛生学の講師は講堂の中を見回したあとで続ける。女性同士の同性愛行為は女性特有感染症の拡大を招く事、そしていとも容易く死を招く危険 がある事。
性行為に及ぶ際の膣内衛生は攻撃的組成の分泌液成分となる。それが相手の胎内に入るとどうなるのか、脅すような言葉が延々と続けられた。

「女性にはペニスが有りません。当たり前ですね。ですから手や指やその他の物で快感を得ようと頑張りますが、それを共有すると危険だということです」

 水を打ったように静まり返る講堂の中で香織は沙織の横顔を見ながら考えていた。

 沙織は私の事を本当に好きなんだろうか。
 本当に?
 本当に?
 本当に?

 二人して狭いベットの中で戯れる夜が、沙織を酷い目に合わせてしまうかもしれない。感染症で羅病するとどうなってしまうのか、それを聞いてみたかった。

 でも、沙織に聞いたら怒られるかな……
 私が沙織から伝染して羅病したら困るから聞いてるんだって思われたら嫌だな……
 絶対嫌だな……
 そう思われたらどうしよう……

 どうしよう
 どうしよう
 どうしよう
 そしたら……

 香織は今にも泣きそうな顔で沙織を見つめていた。

「川口さん! 話を聞いていますか!」
 講師の鋭い言葉が飛ぶ。
 香織は心臓が止まるんじゃないかと思うほどドキッとして裏返った声で答える。

「はい! 勿論です……」
 周りの女の子がどっと笑う。
 沙織も笑っている。恥ずかしそうにモジモジする香織を見て講師は言葉を続ける。

「ではもう一度確認します。非常に重要ですから良く聞いて下さい」

 香織は一言一句聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けた。講師の女性は鋭い視線を香織に向けた後で講義を再開した。

「まず、もっともポピュラーな感染症である性病4種は施設から隔離されます。そして場合によっては廃棄処分となります」
「いいですか? あなた達一人当たり1000万円以上の経費が掛かるのです。そのTSレディが廃棄処分された場合、その費用は親族負担となります」

「次に危険レベルが比較的高い特定伝染病類のうち、粘膜感染がありえる5種の場合はルームパートナーまで廃棄処分となります」
「そして、最も危険性が高い重大特定伝染病3種──エボラ出血熱などですね──この場合はこの生活棟ごと焼き払われます。中にすべてのスタッフを閉じ込め たままです」

「皆さん、自分の身とルームパートナーと、そしてここで生活するすべての家族の為に物事は良く考えてくださいね」

 講堂を埋めたTSレディ達が無言で頷く。講師はそれを見ながら満足そうに笑顔を浮かべて講義の資料を整理し最後にこう言った。

「レズ行為に及ぶのは義務を果たした後でも大丈夫ですよ。今のあなた体は大事な仕事前なんですからね。それに、あんな物で喜んでるようではただのダメ人間 です。
はい、今日はここまで!」

 そういって講師は講堂を出て行った。感染症と衛生学の講義はつまり、レズ行為への嫌悪感と背徳感を植えつけるための授業だった。
そうすれば、彼女達が体の疼きを覚えても、自然に女より男を選ぶだろうという心理学上の緊急退避経路を作る事に他ならなかった。
 こうしてTS法により望まぬ性転換を行われた男の子達の思考パターンが、出来る限り女の子に切り替わっていくのを本人達に気付かせないように配慮されて いるのだ。

 思春期の精神構造変革において、第一段階で顕著に見られる同性愛傾向を早めに体験させ、初潮が来る前にレズ行為を終わらせ、そしてその後に同性愛を嫌悪 するように仕向ける。

 言葉で言い表せば簡単なようだが、実際は監督官を勤めるこの施設の白衣の女性にとって、四六時中監視を続けなければならない激務である。

 そして何より、その監督官の多くがTS法により性転換した多くの先達である事を収容されている女の子達は教えられていない。各棟の棟長ですらそうである 事も……

 香織は自分のノートをまとめロッカーへと歩いていった。この講義に沙織も出席していたが、すでに受講してあるので半分は聞き流していたようだ。
 眠そうな顔をしている沙織と一緒に歩きながら香織は同じことをずーっと考えていた。
 沙織は私のことが好きなのかな……

 ロッカールームでセーラー服からジャージに着替えて施設内の掃除時間となった。食堂の調理室から良い匂いが漏れてくるのもこれくらいの時間帯だ。
施設の作りは入り組んでいて、施設の処理能力拡大に併せ増築されていった事を物語っている。
 しかし、実際にはTSレディを狙った侵入者、つまり男性陣の落伍者が破れかぶれになって、
破天荒な行動に及んでも彼女たちを守り抜く構造になっていること、彼女たちが気が付いてないのだ。
 新しく選出されたTS被験者がここへ眠った状態で運ばれてくる時も、厳重な警備と偽装によって守られている。
この施設は絶望的な現状を打破するための重要な施設でもある。
 しかし、その中に入っているTS被験者達の心の内側だけは……システムや設備を設計した人間でも伺い知る事は出来ない。

 竹箒で玄関を掃除中での沙織を香織は見つめていた。バケツで濯いだ雑巾を絞りながらその仕草をいちいち観察していた。
沙織の動きの合間合間に見せる些細な仕草が、完全に男の子の仕草ではなく女の子の仕草になっている。
振り返り様に髪を抑える仕草も、体の向きを変えるステップの最初は片足が後に下がる様も。
そして何より、一緒に掃除をしている女の子と視線を合わせる時の首の傾げ方も……

 私の知らない女の子とあんなに楽しそうに話をしてるのに……
 沙織は私のこと好きなのかな……

 沙織の心の内を思って自分の心が震えるのをまだ香織は気付いていない。
しかし、男ではなく女としての思考になっている事を本人が意識してしまうと、脳と体から男性傾向が抜けきらないと言うデータがある。
 女性だけの環境で外界適応させてやると、その副産物で男だった頃の記憶を思い出しにくい。政府関係者たちがそう気が付いたのは施設が誕生してからなのだ という。
 人口増加プログラムに組み込まれた彼女たちが、全寮制の学校に送り込まれ年頃の男達に囲まれたとき、
彼女たちが男だった頃の記憶を取り戻してしまうと、計画達成が困難になるのだと過去のデータは物語っている。
 理性を飛ばす催淫薬物の投与を行って受胎を行うことは非人道的行為の限界を超える、そう問題提起した善良な一般市民という名の世論が作ったこの施設は、
15年分の時間を掛けて作った人格を完全破壊してしまうある意味で恐ろしい収容所だった。
 そこに収容された彼女たちは監督官や施術スタッフ達から工業製品程度の認識でしか扱われていない。
そんな酷い現実がその実体であると、世の善良な一般市民は理解しているのだろうか……

 香織は固く絞った雑巾で窓を拭きながら、透明なガラス越しに沙織を眺めていた。
 私は沙織が好き。優しいから、教えてくれるから、心配してくれるから、大事にしてくれるから……
 沙織は私の事をどう思っているんだろう。

 掃除を終えた香織は一人で棟長である雅美の部屋を訪れた。
書架が幾つも並ぶ雅美の部屋は、香織と沙織の暮らす部屋より大きくて広々として、そしてちょっとだけ寂しそうな雰囲気だった。
 突然の訪問に驚いた雅美だったが香織の表情を見て、それが心と体の渇きを癒す為では無く、むしろその正反対の理由だとすぐに見抜いた。
 雅美は書きかけのファイルを閉じて書架に収め、扉を閉めた。
首から下げたネックレスに付いている小さなペンダントのトップを、キーボックスにかざすと小さな赤いランプが点滅しガチャリと鍵が閉まる。
 自分の名前が書いてあるファイルがここにある事を香織は初めて知った。しかし、それを疑問に思う心の余裕は香織にはなかった。

「香織さん、コーヒー飲めるよね? 私もちょうど喉が渇いたところだからコーヒーを入れようとしていたの。飲んでいかない?」

 そう言って香織はコーヒーメーカーにコーヒー豆を一掴み入れてスイッチを入れた。甲高いモーターの音が響いてコーヒーの強烈な匂いが部屋に充満する。
雅美は大きく吸い込むと言った。

「コーヒーって良い香りよね、フフフ……」
 小さく可愛いコーヒーカップに落としたてのコーヒーを注いで香織に差し出しながら、雅美は言葉を選ぶように切り出した。

 そろそろ来ると思っていたわよ……その一言が香織をより不安にしてしまう。良くあることなんだろうか?
 恋に恋する年頃の乙女が抱く感情を、昨日今日女性化した彼女たちが理解できるわけがない。
 小さなウェハースのビスケットを二人でモソモソと食べながら、黙ってコーヒーを飲んでいた。

「あの……雅美姉さま、私……」
「分かってるわ 沙織さんの事でしょ? どう思ってるか知りたいんでしょ?」
「……そうなんです」

 香織はうっすらと涙目だった。息苦しいくらいに思っている事を図星で当てられて、しかもそれが事前に予測できていた事に愕然としていた。
雅美はテーブルに飲み干したコーヒーカップを置いて香織の隣に座った。香織のカップは既に空だった.

 雅美のしなやかで優しい手が香織の頭を抱きしめる。香織は雅美の胸に顔を埋めながら震えていた。
雅美の体から『女』の匂いがしているのだけど、それが何であるかを香織はまだ分からない。

「香織さん、あのね」

 そういって雅美は抱きしめた香織の頭に頬擦りしながら言葉を紡いでいく。

「人が人を好きになるのは2種類あるの。それは片思いと両思い。片思いはつらいわよ。どんなに思っても相手は応えてくれないから。
でも、片思いは大切なの。あなたが沙織さんを思っているなら、沙織さんはあなたの事をちゃんと思っていますよ」

「だってあなたを嫌いな人は自然にあなたを避けるでしょう? あなたを避けないどころか同じベットで寝てくれて、そして……」

 雅美は抱きしめた香織の額に軽くキスしてから言った。

「夜の戯れも一緒に喜びを分かち合ってくれる人があなたを思っていないなんて、ありえないでしょ?」

 香織はボロボロと泣き始めた。微笑みながら雅美はそれを見ている。優しい微笑みに気が付いた香織はさらに泣いてしまう。
声を上げないように嗚咽する香織を抱きしめながら雅美は続ける。

「誰かは誰かの事をいつも気にしているの。誰かの誰かの誰かを辿って行くと必ず自分に帰ってくるの。
だって誰からも思われなくなったら、その人の存在を誰も気がつかなくなるでしょ?あなたはあなたの周りの人にいつも思われているよ。
大丈夫、あなたを見つめている人は必ず居るから。身近にも遠くにも居るから。あなたを思う人の思いに応えてあげてね」

 香織は泣きながら頷いた、雅美は香織のほほを伝う涙を指でぬぐってささやく。

「さぁ食事の時間よ、早く行きなさい。あなたを思っている誰かが……沙織さんが心配しているから」

 香織はハッとして立ち上がって駆け出した。ドアの前まで行って振り返り深々とお辞儀をすると、かわいらしい笑顔を残して部屋を飛び出していった。

 雅美はゆっくりと立ち上がると、コーヒーカップを片付けながらつぶやく。

「危なかったわね。でも嬉しくて泣き出すなんて……精神的にちょっと不安定かしら。もうそろそろ、立派な女の子の仲間入りね……」

 ニヤリと笑う雅美の笑顔には優しさの類ではない表情の相があった。


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