「香織! 香織! 起きて!! はやく!!」
抽象画のような夢を見ていた香織は沙織の手荒な目覚ましで意識を取り戻した。さっきまで窓の外は一面の白い大地と蒼黒い空だったのだが……
「どうしたの? 沙織テンション高いよ」
何となくぼんやりする頭はまだ上手く回転していないらしい。それを見てクスッと笑った沙織は窓の外を指差した。
「良く見てよ! 海だよ! 海が! み・え・る・の!」
ハッとした表情の香織はあわてて窓の外を見る。窓の外は一面の真っ青な海と晴れ渡った空。今、沙織と香織を乗せた飛行機はゆっくりと高度を下げつつあっ
た。
前夜突然の部屋変え後、二人して眠ってしまった部屋へ宮里が再び現れたのは日の出直前の時間帯だった。
「二人ともおきなさ〜い! 出かけますよ!」
そういって二人を起こした宮里の手にはハンガーが2つ、真新しい制服のさがったそれは沙織が旅立ち用にと身に纏った濃紺のブレザーではなく深い群青色の
セーラー服だった。
施設で教育中の時に着ていた白いセーラー服とは違う上質な仕立てのものだ。
操帆夫を意味するセーラー服だからか、襟すみに小さく碇のマークが入っていて、もっとも伝統的なデザインのプリーツスカートと共に上品なイメージをかも
し出していた。
素っ裸だった二人がセーラー服に着替えると宮里は二人を連れて歩き出した。昨日とは別のエレベーターで1階に下り大きな正面玄関へと出る。
ここ初めて見る……
二人の知らない施設内の玄関、正面の曇りドアが開くと、いい年のおばさんが運転席に座っている大型高級車が停車していた。
「さぁ、行きますよ。付いてきなさい」
そういってスタスタと宮里は歩いていく。朝食をとる間もなく車に押し込められた二人は施設の外へと初めて出る事が出来た。
窓の外は一面の森、原始の植生を今に伝えるかのような深い森だった。時々広い草原の中を横切り車は走ってく。
道路の脇には崩れ落ちた民家の残骸と、干草ロールを収めるサイロが朽ち果てた様子で残っていた。
宮里は窓の外を見ながら語りかける。
「昔はね……と言っても200年位前だけど、この辺にも入植して来た人が居てね。拓殖の夢を持って開墾したんだけど、結局みんな出て行ったわ。
あなた達の子孫がもう一度ここを拓くかもしれないわね」
しばらく走って行くとかつて商店街だった思われる廃墟の中を抜けた。宮里は言う。
現在このエリアは極度の過疎進行地域であり、日本屈指の低人口密度地帯らしい。窓の外は右も左も廃墟だらけなのだ。
人の気配が全くしないのも頷けると言うものだろうか。
やがて車は大きな町の中に入っていった。道路の脇を人々が行きかう、老若男女の生活がガラス一枚隔てた向こう側に存在した。沙織も香織も窓の外に釘付け
になっている。
信号を曲がり長い直線の一本道に入る頃、道路の脇の歩道を高校生の男女が自転車を押して歩いているのが見えた。
二人はなんともアンニュイな表情でそれをジーっと凝視している。やがて私もああやって……二人はそう思っていた。
ただ、この時二人の脳裏に浮かんだのは、笑いながら自転車を押している格好良い男の子と歩いている自分の姿だった。
小さな格納庫が二つあるだけの空港には小型ジェットがエンジンを温めて待機していた。宮里は車から降りると二人を連れて飛行機に乗り込む。
完全に油断していた二人だったが、シートベルトをつけるよう言いに来た機内のスタッフに声を掛けられ凍り付いた。
「2人ともしっかりシートベルトを締めてくれ。何かあったら俺が処分される」
そう言って微笑みを残し離れていったのは若い空軍兵士だった。
二人はまだ固まっている。筋骨隆々の背中を翼マークの入ったブルゾンで包んだ惚れ惚れするような格好いい男。ワッと声を掛けた宮里が笑っている。
「男が珍しいの? だよねぇ。やっぱり……いままで女だらけの環境だったから」
そう言って笑いながら通路を挟み、隣の席に腰を下ろした宮里は、資料の束を鞄から取り出してページを捲り始めた。
ややあって席の後ろから来た背の高い男が、小声で何かを言ってハードボックスの資料入れを置いていく。蓋には部外秘の文字があった。
僅か50人乗り程度の小型機だったが乗っているのは政府関係者など20人程度だろう。滑走路へ移動すると止まることなくそそくさと離陸した。
上昇を続ける機内で後ろ側から歩いてきた男が宮里の隣に座った。上昇中の移動は危険だとたしなめる宮里を心配性だと笑っている男は彫りの深い端正な顔の中
年男性。
沙織はその男性をジッと見つめた。
「俺の顔に何か付いてるか? あんまり見つめないでくれよ、恥ずかしいから」
そう言って笑っている。その笑い声に男らしさを感じた香織も目を向けた。
年頃の花のような娘二人に見つめられて男は苦笑している。
宮里はひとしきり資料に目を通すと、左手で資料を突き渡してシッシッと蝿でも追い払うかのように右手で追い払ってしまった。
「宮里先生、今の方は……」
沙織の目が輝いている。香織はそれを茶化す。
鈴の転がる笑い声が三つ。機体は大きく旋回して水平飛行に移った。
しばらく飛んでいたら先ほどの若い兵士が小さな包みを3つ持ってやってきた。
「朝飯まだなんだって? 戦闘食だからあんまり美味くないけど腹ぺこよりは良いよな」
そう言って笑顔と一緒にランチボックスをドサッと置くと、そのまま機体後部へ歩いていった。通る男全部に目を輝かせる沙織は完全に舞い上がっている。
香織はそれを見ているのが楽しいらしい。二人を見ながら宮里は思う。
あの子達、完全に発情期ね。フフフ……
香織は若い兵士の置いていったランチパックを開けてみた。完全真空パックの施されたレトルトの袋には、やや濃い味付けのチキンライスが入っている。
隣のパックはやや酸味のある甘いジュースだった。
香織は一口含んで考え込む。
これ、昔飲んだ覚えがある……
しばらく考える。隣で沙織が止まることなく食事しているというのに考えている。
「香織? どうしたの?」
沙織は明らかに香織のチキンライスを狙っていた。
「いや……何でもないよ。あげないからね!」
そう言って香織は笑った。沙織はいつもの舌を出す表情で物欲しそうに狙っている。
残りのチキンライスを沙織に食べられる前に食べきった香織は、残っていたジュースを飲みきって気が付いた。
あぁ! そうだ! ピッチサイドに幾つもあったスポーツドリンクの味だ……
窓の外を見てキャッキャと声を上げている沙織を見ながら、香織はふと自分ではない誰かの過去を疑似体験したような感覚になった。
あの頃……まだ男の子だった頃にボールを追い掛けて一心不乱にピッチを走り回っていた頃の記憶がふと蘇ってきた。
あ……
ズキン!
香織は突然頭を抱え込んで蹲った。沙織が異変に気付く。
「どうしたの!」
香織は何かをうわごとのように繰り返しているが良く聞き取れない。宮里が立ち上がって香織の首筋をギュッと押しながらシートバックへ体を起こした。
「香織……忘れていた方が楽なこともありますよ。落ち着いて」
そう言って胸のポケットから小さなケースを取り出すと蓋を開けた。一つずつラップで包まれたキャンディーが入っている。
宮里は氷の画が描いてある包みを開けて香織の口に押し込んだ。口の中にクールミントの爽快感が広がっていく。
「なにか、とても懐かしいモノを思い出したんですけど……急に頭が痛くなって」
やがて香織は意識を失うように眠ってしまった。沙織は最初だけ心配そうだったがすぐに興味の対象は窓の外に移った。
自分たちTSレディの扱いに関しては、宮里達の方が遙かに良く分かっているはずという迷信じみた思い込みが有ったからだ。
♪ピ〜ン♪ポ〜ン♪パ〜ン
軽快な電子チャイムの後で着陸態勢となり小さな機体は滑走路に着陸した。
旅客ターミナルを通り過ぎて機体が止まった所は小さな格納庫の中だった。格納庫の中に大きなバスが横付けされていた。
「さて、いよいよ新居ね」
そう言って宮里は二人をバスへと移動させる。バスの中には静かに会話している女の子が4人ほど乗っていた。同じく首元に金色の細いチェーンが見える。
同じなんだ、と香織は思った。なんて声を掛けようかと思案していたが、それはすぐに馬鹿馬鹿しい心配であると気が付いた。
「あ! ごめんね! 私達待っていてくれたの? 私達が一番遠かったのかな?」
既に沙織はこぼれそうな笑顔で声を掛けていた。
……そうなんだよね、沙織はこうだよね。
香織は笑うしかなかった。全く無防備な笑顔は相手を安心させる最も良い手段なのだろう。
後から入ってきた沙織と香織のペアを見て、一瞬だけ身構えた先着の4人が同じように笑顔になった。
「初めまして、川口香織です。こっちのうるさいのが──」
「あ! 香織、それはひどいなぁ! ずるいじゃん!」
香織はにやっと笑って続ける。
「今、沙織はじゃん言葉使ったでしょ」
沙織のしまったという表情が更に車内を笑わせる。ぺろっと舌を出したあとで沙織は改めて先着4人に向き直り、「橘沙織です よろしくね!」と言って笑っ
た。
先に乗っていた4人はそれぞれのペアで顔を見合わせた後で自己紹介が始まった。
「えぇっと……天羽です。天羽恵美です。相方は──」
そう言って恵美は隣を見る。隣は大袈裟な笑顔を浮かべて口を開く。
「私は真美。笹田真美です。よろしく!」
香織はふと思う、私より沙織と馬が合うタイプっぽいなぁ…と。
残りの二人も顔を見合わせてから口を開いた。
「ウチは光子っていいます。西園寺光子。多分関西人『でした』」
そこまで言って光子の相方が大笑いした。沙織も香織も自然と笑顔がこぼれる。イントネーションの全く違う言葉を聞き光子の相方もひとしきり笑ってから自
己紹介する。
「私は望。飛田望です。飛田だと語呂が悪いからのぞみって呼んでね」
そう言い終えるまもなく光子が話を割り込ませる。
「そりゃ『のびた』て呼んだら変やろしねぇ。ドラえもんやないしね」
「違う違う! 私は『とびた』でものぞみなの」
車内がドッと笑う。テンションが違うとかではなく、根本的に何かが違う人間がそこにいることを香織は心から楽しいと思った。
バスの外では宮里が知らない女性二人とアレコレ話し込んでいる。深刻そうな表情と無防備な笑顔が交互に見えた。
何を話してるんだろう?
香織はジッと外を見た。やがて宮里が他の2人とバスに入ってくる。
「あと4人乗るはずだったけど、天気が悪くて飛行機が来ないみたいだから……」
そこまで言ってから沙織と香織以外を順番にジッと見て言う。
「担当の宮里よ、よろしくね。恵美さん、真美さん、光子さん、のぞみさん……あとは、沙織と香織ね」
バスは既に走り始めた。空港のビルを抜けて高速道路を走りバスは海を跨ぐ橋を走っていく。今まで見ていた世界とは全く違うゴミゴミとした町並みを抜け
る。
その景色を見ながら香織は懐かしいと感じた。しかし、それが何を意味するのか考えている余裕は全くなかった。
すぐ隣の沙織が他の4人とノンストップで話を続けている。今までここまで楽しそうに喋り続ける沙織を見たことがなかった。
心が既に外へ向かっていた沙織には夢のような環境なんだね……
香織は少しだけ寂しくなった。
しかし、その時香織は気が付いてしまった。自分と沙織の決定的な変化なのだが全く意識していなかった事だ。
昨夜二人で大きなベットの上で戯れた時は、全くのシラフの状態であったことに……
理性の範囲内で精一杯の快感を求めて相手の体を求めた自分が何だか酷くミジメに思えた。
沙織とは違う意味で出荷準備が出来ていた自分の状態に気が付いたとき、ふと、沙織と楽しそうに喋り続ける真美の隣で窓の外、遠くを見ている恵美に親近感を
感じた。
やがてバスは厳重なゲートのあるチェックポイントを過ぎて真新しい道路を走り始めた。道路の周りは完全に有刺鉄線で覆われている。
ほとんど車のいない真新しい道をしばらく走ると、トンネルに入り2つ目のチェックポイントを過ぎた。
長いトンネルを走っていき前方に光輝く出口が見えた。車内の人間が目を細める。トンネルを飛び出したバスはほとんど間髪入れずに海を跨ぐ吊り橋を走って
いる。
橋の途中に3つ目のチェックポイントが有った。ここでバスは初めて止まり、バスの床下やトランクなどを細かくチェックされた。
車内へも婦警が入ってきて、顔写真入りの資料を見ながら全員がチェックされる。
ここまで運転してきたバスの運転手が降りて別の運転手が乗り込みバスは出発する。物々しい警備に女の子6人はいささか不安になった。
橋を渡り終えるとそこは周囲を海に囲まれた小島であった。島に渡ったバスはそのまま島中央の高台へと上っていく。
道沿いには真新しい野球グラウンドが3面、美しい青芝の光るピッチが4面、テニスコートの区画が遠くに見える。
島の裏側には陸上トラックが有るらしく、陸上競技のピクチャーサインが矢印と一緒に掲示されていた。
高台の上には大きな体育館が2つとプールが見える。その向こうには大きな校舎が6棟立っている。
その隣は高層アパート状の居住施設、そしてその奥は2つのタワー型高層マンション、この島だけで一つの学校と町を作っていた。
バスは島を一周するように走ると高層マンションの前で停車した。6人がバスから降りると、初老の男性一人と品の良いおばさま3人が立って女の子達を出迎
えた。
「やぁ、やっと来たね。ここが君たちの新居だ」
そう言って背後の高層タワーマンションを指さす。隣のおばさまが口を開く。
「今はまだあなた達だけだからどこでも行って良いわよ。他の生徒が入ってくるのは3日後だから」
そう言って微笑む。
「とりあえず中に入ろう。ここは日なただから色々と困るだろ? 色々と……ね」
そう言って初老の男性はみなを中へと案内した。大きなホテルのエントランスロビー状になっている辺りで男性は小さな箱を出した。
「さて、では部屋を決めますかね。みんなペンダントを出してこの中に入れて」
そう言って黒塗りの箱を差し出した。香織は首からペンダントを外して箱に入れる。他の5人もそうしたようだ。
「では……宮里君。君がひきたまえ。まずは15階」
宮里は箱の中からペンダントを引き抜く。
「15階……恵美ね」
「では、次はその上16階」
「16階は光子ね」
そうやって15階から24階までの部屋を部屋のうち、6部屋をそれぞれ割り当てられた。空いてるところは後から来る4人に振り分けられるという。
香織は21階を割り当てられ、上下は現状空き家になった。
沙織が24階に割り当てられたのを確かめて全員でエレベーターに入る。ゴンドラが上昇していき15階で止まる。
ゴンドラ奥に居た宮里が、入ったのとは反対側のドア部分にある小さな銀の箱に。持っていた恵美のペンダントを当てるとドアが開いた。
宮里はペンダントを恵美に渡すと言った。
「後は自分で部屋を見なさいね」
そう言ってドアが閉まった。そうやって順番に降りていく。16階に光子が、17階は真美がそれぞれ降りた。
18階から20階は空室で21階の部屋前へ香織が降りた。音もなくエレベーターのドアが閉まり、香織はエレベータードアと割り当てられたまだ見ぬ自室の
前に取り残された。
どう頑張っても人間が2人以上は入れない小さな空間でしかない。
香織は持っていたペンダントをドアの施錠機に接触させる。ガチャッと音がして鍵が開く。ドアを押して中に入ると、昨夜沙織と二人で過ごしたのと全く同じ
部屋があった。
部屋の構造は大体分かっているものの一通り見て回る。キッチンには2人分の食器があり、ベットルームには二人分の枕が並んでいた。
クローゼットの中には綺麗に整理された服がギッシリと入っている。
ベットサイドのモノ入れには生理用品と見慣れぬ銀のケースに入った薬。
バスルームはとにかく大きな作りになっていて沙織と一緒に風呂に入ってもまだ余るサイズだった。
部屋を一通り見た香織は所在なげにソファーへと座った。目に付くところに掃除道具一式が置いてある。
ここが……私の……仕事場……なのね。
香織はなにやら急激に不安に駆られ始めた。自然と涙目になる。
全く知らない環境に放り出されて4週間。小さな部屋で過ごした香織が広い部屋でポツンと一人膝を抱いている。
香織の心を支えてくれる存在はここにはまだ居ない。誰でも良いから来て……と呟いて、所在なげに小さくなって香織はまだ見ぬ誰かを思っていた。