共学化がスタートして1週間、最初の事件はその日の夕暮れに発覚した。
アパート住まいの女子生徒が夕方の時点で行方不明になった。
島の出入り口は封鎖され生徒は全員自室へ戻るよう指示が出た。
ありえない筈の侵入者を探すマニュアル通りの対応だった。
姿を消した女子生徒の部屋に居た男子生徒が重要参考人として、教務課ではなく事務課のスタッフに連れて行かれたようだ。しかし、翌朝になっても自室待機
は解除されない。
昼になって食堂へ集まったタワー組6人は宮里から意外な説明を受けた。
「行方不明になっていた子ですが……」
宮里は明らかに口篭っている。その内容は容易に想像が付いていた。ただ、実際に説明を受ける段になってやはり身構えてしまうのは致し方ないだろう。
共学化から1週間。既に気の早い男女でペアリングが成立し、押しかけ亭主に納まった男子生徒が部屋主の女子生徒と激しく口論になり……カッとなって殴り
殺してしまった。
遺体を袋に入れて海に投げ込んだと供述した男子生徒の証言どおり、岩場の海底から袋に詰め込まれた女子生徒の遺体が発見された。
男子生徒の言い分は単純だ。求めたが拒否された。それでついカッとなって──
子を生む事が求められるTS法の管理下において、男女どちらの言い分を尊重するかは非常に重要かつデリケートな問題である。
男子側の言い分を通せばただの管理売春となってしまい、女子側の言い分を通せばミニチュア女王様の誕生でしかない。
若いカップルの性欲をどうコントロールしていくのかは管理側の腕の見せ所であるが、実際の話として精神論や根性論で抑制していくしか方法が思いつかない
のであった。
TS法の管理下で起きた事件ゆえに一般へ情報が漏れる事はめったに無い。ただ、法律を管理する側にとって数字をコントロールし、事実をもみ消さなければ
ならない現実は残ってしまう。
裁判所を通さずに、現場でスピーディーに事が運ぶよう、一定の司法権を持たされたTS法管理部門の下した裁定は、加害者男子生徒に対する強制性転換だっ
た。
自らがあけた穴を自ら埋めるよう厳罰が下された。
後日、その手の話は生徒達の間で燎原の火の如く広まっていく。男子側には厳しいモラルとセルフコントロールが求められた。
そして女子側には──
「TS法においては事に及ぶ場合、あなた達の決断が必要になります」
「しかし。勿体ぶって焦らし過ぎると相手は暴走しかねません」
「時には素直に身を委ねましょう。自らの身を守るためです」
教育現場の恐るべき実態と言うなかれ。
特定の目的を持った制度と人員ゆえに結論へ至るのは早かった。
共学化から1ヶ月。タワー組がサロンであれこれ会話する内容は、勉強よりも男子側の話題だらけだった。どこの誰がアパート何号室の誰々とペアになっ
た……。
そんな話が怒涛のように続く時期だ。手と口の早い男子は女子を口説き落としてハンモック暮らしから脱出し始めている。
女子側も狭いながら、楽しいマイルームとなってルームパートナーにすべてを委ねていた。
ある意味で非常に大らかな同棲生活状態となるペアリングだが、いまだタワーの玄関を突破した男子生徒は居ない。
ハンモック生活を続ける男子生徒の中には、プロスポーツ界や勝負師の世界で名の通った人間も居るのだが、その手の男子達は安易にアパートへ入り浸るよう
な安い存在ではなかった。
絶妙な距離感を保つ売れ残り男子とブ、ロックの硬いタワー組の間で不思議な達引きが始まっていたのは、ちょうどこの時期だった。
◇◆◇
ある日、沙織は3号棟の食堂で昼食後、アパート組の女子生徒とオセロに興じていた。沙織の安定した精神力はピンチに動じずチャンスで浮かれる事は無かっ
た。
そして、そのすぐ隣には作戦参謀よろしく分析力のやたらと強い香織が立っている。
アパート組女子生徒の中でも指折りの強さを持つ生徒が難なくひねり倒されている。既に沙織の常勝街道は60連勝に迫る勢いだった。
この日も、既に盤上は沙織の白が埋めつつあった。アパート組女子生徒の戦況は芳しくないのではなく、絶望的な状況へと悪化の一途をたどっている。
4隅の一角を失うか否かの状況になり次の一手を思案していた。
何かを決意したアパート住まいの女子生徒が一手指さんと手を伸ばしたその刹那、やや距離を置いたところから男子生徒が口を挟んだ。
「そこだと、7手先で右手前の角を取られる」
フレームレスのメガネをかけたその男子生徒は、眉一つ動かすことなく言い放ってじっと腕を組んだまま盤上を見ていた。
沙織はゆっくりと顔を動かして男子生徒を見る。その仕草を香織も見ている。
何かを見つけた男子生徒はゆっくり近づくと、アパート住まいの女子生徒からオセロのメダルを取り上げ一手指した。
「ここが最善手だろうね。改善するには遠いがこれ以上の悪化を防げる」
そう言ってどこかへ消えて行った。その後姿を沙織は見ていた。
今日のゲームはこの一手から流れが変わり、楽勝ムードが一変する力勝負になった。沙織は次の一手を逡巡している。香織も同時に思案して最善手を探す。
ここが、と思うマスへ白を打った。沙織の一手は香織と一致した。結局この一手が流れを引き戻す打ち手になり、沙織の連勝はまた一つ伸びた。
苦笑いしながら消えていくアパート組の女子生徒が居なくなって、沙織は香織とオセロを始めた。
頭の回転が速い上に相手の手の内を知り尽くしている二人。盤上のマスがどんどんと埋まっていく。
しばらくして沙織はさっきの男子生徒がまた見ているのに気が付いた。
「遠めに見てないでこっちに来たらどう?」
沙織は明らかに誘っている。香織は察して席を立った。
男子生徒は頭をかきながら近寄ってきて席へついた。
「誘われたら断れないんだったっけ……」
そういってメガネを取り盤上のメダルを片付けた。
「私は沙織よ、橘──」
「橘沙織だろ、タワー組24階の住人」
「私を知っているの?」
「知らない男はいないよ。隣は川口だろ、川口香織」
沙織は香織の顔を見る。香織は笑っている。
「さて、ダダ話をしに来た訳じゃない。一局打とうじゃないか」
そういって男子生徒は黒メダルを盤上へ置いた。
「タワー組の才女様に敬意を表して黒で指すよ。これでも本因坊を目指す最年少新人王候補なんだぜ」
そういって少年は屈託無く笑った。
「相手にとって不足は無いわね」
沙織もニヤリと笑って白を盤上に置いた、香織はそれを離れて見ている。
「制限時間はつけるのか?」
少年の言葉には遠慮や配慮の類が一切無かった、しかし、沙織はそれがなぜか心地よか
った。今までタワー組以外の人間からは色々と配慮がされていた部分があったので息苦
しかったのかもしれない。
「オセロにも時間制限つけるの? まぁいいけど、それより名乗ったら?」
「あぁそうだな。4号棟住人、ハンモックナンバー5番の志賀英才だ。よろしくな」
「英才? すごい名前ね」
そういって沙織はじっと志賀を見る。しかし、その目は男を誘う女の目ではなかった。
勝負が始まったのは午後の講義が始まる10分前だった。午後の授業は全国から集められた特待生たちの専門強化に当てられている。
運動系はそのトレーニングへ、文科系はその研究へ。しかし、今日に限って言えば棋界新人王を目指す少年の午後がオセロに費やされている。
……勝負は2時間に及んだ。次の一手を沙織は真剣に考えた。その一手を見て英才は真剣に考えた。それを繰り返した結果、4隅のうち3つは沙織が占めた。
しかし64マスのうち白が埋めたのは僅か28マスだった。
「4マス差で俺の勝ちだな。面白かったぜ」
そういって英才は立ち上がり4号棟へ歩いていった。沙織はその後姿を見つめていた。
実力で負けた。力ずくでねじ伏せられた感があった。ただ、それは爽快な負けだった。
「負けちゃった……あ〜ぁ、60連勝ならず」
「でも、嬉しそうじゃん。結構いい男だったよ」
「強かったよね。間違いなく強かったよね。ここで……ここになかなか打てないよ」
そういって沙織は盤上の黒いメダルを指で撫でている。その仕草が香織には酷くエロティックな物に見えた。
愛しむ様にメダルを撫でていた沙織は、そのメダルを拾ってポケットに入れると立ち上がった。
「次は絶対勝ってやるからね」
沙織の顔には笑みがこぼれていた。
その夜、タワーのサロンで談笑する6人の中で沙織だけが浮いていた。ポケットから取り出したメダルを無表情に眺めながら戦略を考えていた。
「さ〜おり! どないしたん? なんや思い詰めとるやん」
「え? あ、そう……?」
「沙織ね、今日の午後にオセロで負けたの。4号棟の男の子に」
「え゛〜! ホンマに! 沙織が負けるってよっぽどやな」
タワー組の目が沙織に集まる。沙織は苦笑いして黙っている。
間を持つように香織が口を開いた。
「あの後で調べたんだけど……彼は永世名人を生んだ志賀一門の跡取りなんだって」
「志賀ってあの碁打ちの志賀一門?」
「そうみたいね」
沙織の狙っている少年は碁の天才か……
タワー組の誰もがそう思った・本人は彼を打ち負かすのが目標なのだけど、周囲はそうは思っていない。
おそらく、本人も彼を気になり始めた事にすら気がついていない。
どこか対等なライバルの様に思っているのかもしれない。
消灯時間になって自室へ戻った香織は外が明るいのに気がついた。
部屋の明かりを落としてベランダに出てみると、野球場越しのサッカーコートであの時の少年が黙々とシュート練習をしているのが見えた。
ふと時計に目をやると既に11時を回っている。
こんな時間まで一人で練習するなんて……彼はまだハンモックかしら。
なぜそれが気になったのか香織は気がついていた。彼が気になっていた・その練習を遠くからじっと見つめていた。
やや離れたところから、見えないディフェンス陣をイメージしてフェイントをかけながら切り込んで行き、シュートを打つ姿に見とれていた。
11時半。少年はピッチサイドに投げてあった水を一気に3本飲んで引き上げていった。シャワーを浴びるには既に遅い時間だろう。
汗だくのまま寝るのかな……それをイメージしたら香織は体中が熱くなってしまった。
私、恋してるの? その答えは自分では導き出されない。
サッカーコートのナイター照明が落とされ月明かりに光る海が見えた時、香織の頭に少年が水をがぶ飲みする理由が浮かんだ。
きっと、お腹が空いていたんだ……
育ち盛りの少年が夕食の後で黙々と3時間も練習すれば腹が減るのは道理だろう。
どうやってご飯を用意しようか考えている自分が妙におかしかったのだけど、その理由はなるべく考えないようにして手を考えていた。
翌日、昼食時の食堂で沙織はオセロ盤を広げたまま英才を待っていた。
沙織にリターンマッチを申し込んでくるアパート組の女子生徒に、「ごめん! 人を待っているんだ」とだけ言っ、てサンドイッチを頬張りながら待ってい
た。
しばらく待っていたら何人かの友人を連れて英才が食堂へやってきた。盤上を見てあれこれ考えている沙織を見て苦笑いしながら英才がよっていく。
「お嬢さん、どなたか人待ちですか?」
そういわれて沙織は口から心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
「あなたに勝つ方法一晩考えて来たんだけど……試させてくれる?」
沙織はニコッと笑いながら事も無げにそう言った。英才はもう笑うしかない。
「んじゃ……チャッチャと勝負しちゃいますか。橘と勝負すると時間掛かるから」
そういって英才は上着を脱いだ。Tシャツ越しに筋骨隆々とした上半身が見える。
「なんで碁打ちがそんなに鍛えてるの?」
沙織の屈託無い質問は容赦が無い。
英才の回答はこれまた絶妙だった。
「趣味だな。橘には関係ないだろ」
双方引き下がる事が無くなった。プライドの高い人間同士、五寸で渡り合う前哨戦は引き分けだった。
案の定、英才は昼飯を食べ損なった。それどころか英才の打ち手を考えてきた沙織は圧し続けていた。
危険なエリアは早めに手当てして有利な場所では細心の注意を払って……
言葉で言えば簡単だが内容は厳しかった。碁打ちにとってオセロは決して簡単なゲームではない。
定石展開に持っていく勝負をしやすいか否かで判断できる問題ではなくなっていた。
前日の2時間勝負から1時間伸びて3時間勝負になった。今日は最後の一手を英才が打って32対32のイーブンになり引き分けた。
沙織がそれを狙った部分も有るのだけど、英才が途中でそれに気がついて引き分け狙いに切り替えた部分も大きいようだ。
沙織はオセロ盤を片付けながら英才に言葉を掛ける。
「囲碁って難しい?」
英才はしばらく考えてから答えた。
「物心つく前から碁石を触っていたから分からない」と。
「オセロと囲碁はどっちが面白い?」
「そうだな、気楽なオセロも捨てがたいけど碁は別の楽しさがある」
「それってどんなの?」
「う〜ん、碁を打てるなら話が早いんだけどなぁ」
「打てればね……私は碁の打ち方を知らないからなぁ」
「覚えれば簡単だよ。将棋と違って駒の動きに差が無いから」
「ふ〜ん」
「良かったら……」
「良かったら……なに?」
ここまで言って沙織は笑っている。次の一言をどうしても英才に言わせたい。
彼女のプライドが頭を下げて彼を呼ぶことを拒否している。しかし、それを分かっていない英才ではない。彼もまた沙織に頭を下げさせる事を狙っている。
「良かったら……碁打ちの教科書あげようか?」
「え? あ……うん……そう……」
危なかった、とでも言いたげな表情で英才は笑っている。もう一押しだったのに、と沙織は悔しがる。
後に最強の碁打ち夫婦と呼ばれるようになる、英才と沙織の達引きは一筋縄でいかない心理戦の様相を呈し始めていた。
そして香織は──
食後にグラウンドでボールを磨いているサッカー少年を遠くから見ていた。
ピッチのネット越しにキャーキャー言うアパート組女子生徒と、それを狙う男子生徒の間でワイワイと盛り上がるなか、
ボールを磨いてそれをリフティングし、離れたボールバスケットへ蹴り込む練習をしている少年は、ネットの遠くで一人それを行っていた。
彼は孤独なのかな……孤独が好きなのかな?
香織の狙いがほぼ一人に絞られたようだけど、声をかける術が無かった。そしてその光景を見て香織に狙いを定めた男子生徒が一名、黙々とピッチ周りを走り
ながら香織を見ていた。
施設から移り住んできて既に2ヶ月が経過しようとしている。
香織達タワー組の誰が最初に男を招き入れるのか?
アパート組のチェックも段々と厳しくなっていった。