明け方、ふと目を覚ました勝人は傍らに香織が居ないことに気が付いた。体を起こして周囲を探すと香織は窓辺に立って外を見ていた。裸のままで。
 ゆっくりと起きあがって香織の隣に立つ勝人。香織はそれに気が付いて勝人の腰に抱きついた。

「夜明けか……」
「うん、さっき気が付いて眺めていたの」
「体を冷やすなよ」

 そう言って勝人は香織の体ごと毛布を巻いた。二人で蓑虫になって外を眺めている。
 水平線の向こうから真っ赤な太陽がギラギラと輝いて昇り始める。一瞬、陽炎で形が歪みハート型に見えたような気がした。それを見て二人で微笑む。

「まだちょっと早いから2度寝しようよ」
「ごろごろしてりゃあっという間だな」
「そうだね」

 二人でまたベットに横になって時計を眺めている。今日は島に帰る日だ。帰ったらみんなに何て言おうかな……そんな事ばかり香織は考えている。

 実家へ行って結婚してきました。それで良いかな……うん、そうしよう。それでいい。
 ふと気が付いたら勝人は寝息を立てている。香織は勝人の寝顔にそっとキスした。

 いつの間にか香織も眠りに落ちいて何かあやふやなイメージの夢を見ていたけど、何かの物音で目を覚ました。時計の針は8時を指している。

「マズイ! マズイよ8時だよ!」

 そういって勝人を揺り動かした。勝人は半分寝ぼけて香織をギュッと抱きしめた。
 しかし、その刹那に香織の手が勝人の頬をパチパチと叩く。

「まさと! ルームサービスの時間!」
「あ! いっけね!」

 バスローブを羽織って部屋のドアを開けると、ボーイが二人分の朝食をワゴンに乗せて待っていた。
「武田ご夫妻おはようございます、朝食でございます」
 ボーイはそう言って部屋に入ってくるなり、リビングのテーブルをメイクし始めた。所在無げな勝人だったがベッドルームの入り口が開いているのに気が付い て扉を閉める。
素っ裸でベットの中に隠れていた香織はやっと立ち上がれるようになり、ベッドガウンを羽織って髪をとかし始めた。
 手持ち無沙汰感の強かった勝人は、バスローブのままテレビのスイッチを入れた。ちょうど今日の天気予報が始まるところだった。
『……南方海上に台風47号が発生しました』
 ……これじゃ島に帰ってからしばらくは風で練習出来ないなぁ。と、そんな事を考えていた。

「おまたせいたしました。ごゆっくりどうぞ」

 黙々と準備していたボーイはそう言うとそそくさと立ち去った。
 素っ裸にバスローブ姿の勝人を見れば寝起きなのはすぐに分かるし、旦那である勝人が裸なら妻は推して知るべしなのだろう。教育の行き届いたホテルならで はの気遣いなのかもしれない。

「シャワー浴びようよ」
 ベットルームから出てきた香織はそういって勝人を誘った。
 勝人もシャワールームへと入ってくる。香織は勢い良く出るシャワーを被りながら勝人の目の前で自分の体に手を滑らせ、艶かしい肢体を流していく。
 その仕草があまりにエロティックで、勝人も多少ムラムラとしているようだが、香織は気にしていない。
 むしろ、襲うなら襲っても良いよ、とでも言わんばかりの笑顔で、時々誘うように勝人を見るのだった。
 あまりに時間的な制約が大きく事に及ぶのは……と思う勝人だが、その心中は荒れ狂う大海原の大波のようだ。

 大きなバスタオルに手を伸ばした香織は勝人の背中を拭いた。背中から両腕、そして肩から腹、下半身へ。されるがままの勝人がもう一本のバスタオルで香織 の髪をそっとふきあげる。
いつの間にか肩甲骨まで伸びたつややかな黒髪にドキッとするのだった。

「香織……」
「……どうしたの?」

 小悪魔的な微笑を返す香織に勝人は我慢の限界だが。

「飯にしよう」
「……うん」

 ちょっとだけ残念そうな香織。勝人は膝立ちになってバスタオルで香織を優しく拭いていく。その感触だけで今の香織には十分満足だった。
これから長い長い道のりを共に歩むから、いつでも……そう思えば二人には満足なのかもしれない。
 ただ一つ、半勃ちで所在無げな勝人のペニスを除いて。

 ボーイの運んできた朝食セットは実に豪華だった。朝からこんなに食べられない……そう思うほどの量でもあったのだが、食べ盛りの勝人が居るのでさほど心 配は無いのかもしれない。
パリっと焼かれたトーストにボウル一杯のサラダ、ふんわり焼かれたスクランブルエッグとショルダーベーコンのスライス。
新鮮なトマトジュースを飲みながら香織はカロリーと成分計算している。

「う〜ん、ちょっとカルシウムが足りないかなぁ」

 そういってゆで卵に手を伸ばし殻をむいて半割りにすると、殻を少し手にとって粉々に砕き黄身に掛けてしまった。
吸収効率の悪いカルシウムをこれで摂取できるとは思えないのだが……

「あんまり変なもの食うと腹壊すぞ」
「平気平気! 昔は軟骨バリバリ食べたんだって、サメ軟骨とか」
「え? サメって食えるの?」
「昔のはんぺんはサメだったそうよ」
「いまじゃ信じられないな……」

 価値観や考え方、常識と言った物は時代と共に変化していくものだが、産まれてくる子供へ親が注ぐ愛情は何時の時代も変わらないものなのだろう。

 果実を親子で食べるなら甘い所を子供に与え親は苦い所を食べる。夜の寝床に入るなら乾いた所へ子供を寝かし親は濡れた床でも眠る。
太古の昔から変わらない、親から子へ注がれる愛のリレー。
 粉っぽい黄身に粉々の殻を掛けて食べる香織の心は産まれてくる子供の為に……それしか無いのかも知れない。

 いつの間にか二人にとって食後のコーヒーは大切な時間になった。アレだけあった朝食のメニューもほとんど勝人の胃袋に収まり、香織は皿を重ねて綺麗に片 付け始める。
 その仕草や立ち振る舞いに勝人は香織の母性を見た気がした。
 見るとはなしに眺めるだけなのだろうけど、今目の前で動いている女性が元男性だったとは、もはや勝人にですら冗談にしか聞こえない話になっている。
 パウダールームで髪を乾かし綺麗にセットしてメイクしている香織。フンフ〜ンなどと、鼻歌交じりに鏡を見つめている表情は幸せそのものだ。
既に着替えて歯を磨いている勝人はそれを見ながら、また情念の波が押し寄せてくるのを感じている。

 なにか、凄い遊び道具を手に入れた子供が、いつもそれをいじっていたい様な感覚。僅か16才の少年の中に大人と子供が同居しているのだろう。
反抗期真っ盛りになって背伸びしたい年頃になろうとしているのだが……それすら許されぬ重荷を背負った事を勝人はまだ分かっていない。

 支度を整えてホテルからチェックアウトする時、フロントのスタッフが勝人に封筒を渡した。お父様から預かりました、と言われたのだが、果たして中身はタ クシー券だった。
 最後の最後まで親が気を使ってくれている。その事実に勝人は香織の肩を抱いて震えていた。こんなにしてもらって……

「勝人……急がないと」
「そうだな」

 二人は車寄せに待機しているタクシーで家路に就く。何気なく時計を見たら既に10時になっている。やや遅れ気味か……香織はふとそう思った。

 勝人の実家でタクシーを降りると香織の両親も待機していた。それに驚く香織。
 そして、宮里と橋本もそこに一緒に待っていた。ある意味で凄い取り合わせなのだが。

 香織の父親は事もなげに言う。お前の家は既にこちらになったのだ、と。母親は香織にカバンを渡した。中身は女性になった香織の必要なものばかりだ。
勝人も母親からカバンを受け取り橋本の運転する黒塗りの車に乗り込んだ。

「じゃぁ行ってきます!」
 勝人が窓を開けて声を上げる。
「行ってまいります」
 香織のしとやかな挨拶が続く。

 香織の母親が駆け寄って包みを窓から渡した。

「日記帳を買ってきたからこれに日記をつけなさい。一杯になったら送ってね」

 勝人の母親もやってきた。

「香織さん、ウチのバカ息子をよろしくね。何かあれば遠慮しないで言ってちょうだいね、代わりに叱り付けてあげるから」

 ちょっとウルウルしている香織だったけど、改まって言う。

「お父さんお母さん、行ってきます。ありがとうございました」

 宮里が時計を見た後で助士席のドアを開けた。

「そろそろ時間ですので……では、日本政府が責任もってお預かりいたします」

 そう言うと車に乗り込みドアを閉めた。二人の家族が出てきて手を振る。二人も振り返って手を振る。辛い別れでもあるけど、二人にとっては遊びに行くよう なものでもある。

 懐かしい町並みを抜けて、車は再びリニアラインの駅へとやってきた。駅前に待っていた省のスタッフへ車を預け、見知らぬ3人のガードと共に二人はホーム へと上がる。
なぜか厳重な警備が続いているのだけど、その理由を二人は聞かされていない。

 ホームの上、列車を待つ二人は恐る恐る宮里に尋ねた。
「来る時は私達だけだったのに帰りはなんでこんなに警備がついたんですか?」
 宮里は一瞬口ごもり、それを見た橋本が代わりに答えた。

「実はね、この夏の一時帰宅中にアパート組の子がホームで襲われてね……」
「え? マジっすか?? どうして??」
「人工的に作られた子供は神の摂理に反するとか言って、強行に反対してる組織がね……」
「そうな事が……あったんですか」
「その組織がまた古くてね。ナチ第三帝国の女性解放運動こそ根本とか言うんだよ」
「はぁ?」
 二人はハモって答えた

 橋本は苦笑いして言う。

「自立女性を支援するんだってさ」
「……で、それが何の関係あって」

 宮里も笑うしかないようだ。あまりに横暴な主義主張であるけど当人達は真面目なのだろう。ただ、その主義主張は被害妄想と表裏一体でもある。

「要するに彼らは自分達の主義主張の為なら何でもするんだよ。自分達の意見が通らないのは被害だと思ってるんだ。
自分達は被害者なんだから最優先で救済されるべきだって言うんだよ。そして自分達の意見とは違う意見は全部間違っていると勘違いしてる」

「世の中にいるんですね、そういう偏った人たちって」

「まぁ主義主張は自由だ。でも、他の意見を尊重出来なければただのファシズムだね」

 それっきりその場は静かになってしまった。橋本は遠くを見ながら言う。

「大声を張り上げて主張して…それが通らなければ人の嫌がる事も平気でする……もはやまともな人間のする事じゃない」

 香織はその横顔をじっと見ている。橋本はそれに気がついて香織に目をやり続ける。

「嫌がっていても無理やり女性化してしまう組織も有るんだからな。世の中どこかおかしいんだよ……嫌がっても拒否しても、強制女性化なんだから……私も どっかおかしい人間だよ、きっとね」

「そんな事は…」
 そこまで言って香織は言葉に詰まった。
 宮里がそっと香織の肩に手をかける。勝人もそっと香織の手を握った。
 国家の都合が国民を振り回す事は多々有るのだろうけど、その国家とは国民を包む袋でしかない。どっちに転がっていくかは中身の問題なのだろう。
そんな風に思った香織の脳裏には、世の中という得体の知れない巨大な圧力団体のイメージがあった。

「今更遅いけど……申し訳ないと心底思っているよ」

 そう言って橋本はやってきた流線型に輝くリニアに乗り込んだ。二人がそれに続きガードも車内に入る。車両の両端部にある個室へと収まり列車は出発した。
車窓を凄い速度で景色が流れていく。ほとんどトンネルの中を滑るように走っていくリニアの景色は大して面白くない。

 香織はふと思い立って母親が買ってきた日記帳の包みを開けた。中から重厚な表紙と装丁のノートが出てきた。表紙を捲るとそこには母親の字で縦に一行書い てある。

     やがて母になる、愛する娘へ 母より

「お母さん……」
 香織の心中に母親の笑顔が浮かぶ。一文をみて勝人は涙ぐんだ。
「凄いよな、親って」
 香織は黙って頷く。

 列車がガクッと速度を落とした。浮上走行からレールに『着陸』したようだ。大きくカーブを切ってトンネルから出て大きな駅へと入っていく。
関西圏の玄関ともいうべき駅前で二人は島からの迎えに収まった。ここから先、橋本は同行しないようだ。

「じゃぁ、無事に産まれる事を祈っているよ」

 そう言って橋本はどこかへ消えていった。宮里とガード3人が二人と共に島を目指す。
 何時だったか渡った橋の第三チェックを越えて島に入りタワーへ……香織と勝人の新しい人生。タワーの前で車から降りるとちょうど島が昼食時になってい た。

「お帰り香織! どうだった!」

 3号棟から戻ってきた沙織が香織を見つけて声をかける。英才と歩く沙織も心なしかお腹が出始めている。

「うん……入籍してきた」
「え゛! ほんとに!!」
「うん、そうしないと産んじゃダメって言うから……ね!」

 そういって香織は勝人を見る。勝人は頭を掻きながら言う。

「親父が堅物でさ……でもまぁ……うん、幸せだ」
「私も幸せだよ」

 二人で手をつないで見上げるタワー。
 その上には高く青い秋の空が広がっている。

「今日からまた、よろしくな」
「うん……よろしくね」

 島を抜ける潮風に秋の気配が漂い始める頃だった……


── 了 ──


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