渡された制服は紛れもなく女子用だった。毎日のように見ているけど、自分の手で持ってみると変な感じがする。
上は、男子のと同じカッター(ブラウス?)だけど、合わせが右前だ。
襟が長めにとってあり、それを通して浅葱色のリボンを胸の上あたりで結ぶようになっている。
そして下はやっぱり、
「スカートはかないとダメですか」
「ダメよ」
一縷の望みはあっけなく潰えた。ただ春の夜の夢のように。
まさか自分がスカートをはくことになるなんて思ってもみなかった。
…………
一通り身に付けると、どこから出してきたのか姿見の前に立たされた。
「……違和感がそれほどないのがイヤですね」
率直な感想を漏らす。
「違和感どころか、よく似合ってるわよ」
姿見に映ったぼくという形は、そのまま女子生徒だった。
元々の顔でさえ着る服によっては女の子に見られていたのだ。ましてや今は女顔寄りで『女』。似合わないはずがなかった。
これまで必死になって隠してきた胸の膨らみもブラジャーの存在によって制服の上からでも一目でわかる。どう言い訳しても『男』ではない。
「似合うと言われても嬉しくないですよ……。あくまでぼくは男なんですから」
「それもひとつの個性じゃない?」
個性。便利な言葉だ。ナンバーワンよりオンリーワン。
無個性も個性と定義付けるなら話は別だけど、普通一般のカテゴリに属しているほうがはるかに楽だと思う。
少なくとも『中性的』という個性はぼくにとっては重石だ。そのせいでイジメの対象にもなったことがあるし…。
「それじゃ、帰ります」
「気をつけてね」
保健室を出る。何時間ぶりかの廊下は茜色に染まり、とても静かだった。
生徒も行き交わず、時折グラウンドのほうから野球部のものらしい掛け声が薄く届くだけだ。
この空間のなかで一番大きい音は自分の足音くらいで、その音さえもそこかしこに広がる影に吸い込まれて消えてしまっているようだった。
ぼくは教室に向かっていた。カバンもそうだけど、汗まみれの体操着を置いて帰るのはとてもできない。明日が地獄になる。
幸いにして教室には誰もいなかった。
教壇の上にある時計の針は午後6時を指していた。この時間まで学校にいるのは部活動をやっている人くらいなので、教室はがらんとしている。
ぼくのいない間に配られたらしいプリントの束をカバンに放り込む。
ふと窓ガラスのほうへ目を遣る。ガラスの向こうには、ぼくによく似た別人がいた。
いったい『本来の半田陽』はどこへいってしまったのだろうか。
「考えてもしょうがないか…」
わからないことを突き詰めたって答えにたどりつくことなんかできやしない。
考えを振り払い、止まったままになっていた手を動かす。

──ガラッ

唐突に教室の引き戸が開け放たれる。
「陽──か?」
明だった。
いま家族に次いで会いたくない人物。
ぼくのほうへとゆっくり近づいてくる。
「やっぱ女になったってのは本当だったのか…」
先生から聞かされたのだろう。どうせ明日になれば嫌でも知られることになる。
その点において、事前に伝えることでパニックを和らげられるのは得策といえる。
でも自分と無関係のところで話が広がっていくのは、お世辞にも良くは思えない。
「ホント、信じられねえよ。急にそんなになっちうまなんて。クラスメイトの奴らみんな驚いてたぞ」
それはそうだ。ぼくだって逆の立場だったらきっと驚く。
「ひょっとして、今日の体育のとき妙におかしかったけど、そのせい?」
明は、うつむくぼくに矢継ぎ早に言葉を浴びせかける。焦っているのか、声が上擦っている。
いつものように余裕のある陽気なそれではなかった。
「ま、まあ元気だせよ! いきなりは無理だろうけどよ」
明が元気付けようとしてくれているのは痛いほどわかった。けど、それになんて応えたらいいのかわからない。
『気にしてないよ』と空元気でも見せればいいのか。
なにも話さずにいればいいのか。
逃げるようにこの場を立ち去ればいいのか。
「…………ごめん」
「お、おい、なに謝ってるんだよ。陽は別になんも悪いことしてねえだろ?」
「……ごめん。いまは何も言えない……」
口をついて出たのは『逃げ』の言葉だった。
保留したといっても事態は決して好転しない。それを理解しながらも、逃げる以外にいまできることは見つからなかった。
「いきなりそんなのになっちまったら誰だって動揺するよな。そんな時は美味しいもん食ってゆっくり風呂入って寝れば、次の日にはちょっとでも落ち着くっ て。な?」
明の無責任とも取れる言葉が心に響く。
「深く考えなくていいじゃん。陽は陽なんだから」
ぼくは、ぼく。
外見が変わっただけで本質は変わらない。我思う故に我在りではないけど、それは確かだ。
「……そうかも」
これまでは嫌なことがあっても一晩寝たら次の日にはどうでもよくなっていたことは多々あった。
楽観的に考えれば明の言うことは一理ある。いつまでもネガティブでいると、自分で自分を追い込んでしまいかねない。
たまにはこうやって楽に構えるのもいいかもしれない。
「だろ? じゃあ帰ろうぜ」
「うん」
自然と少しだけ笑みがこぼれた。この姿になってたぶんはじめての。
これからやっていけるだろうか?
いや、何があってもやっていかなくてはならない。
そして男の自分を取り戻す。絶対に。
そう心に決める。
朝のときみたいに漠然としたものではなく、確固たる決意だ。

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「俺ってさ、実は女と一緒に帰るの初めてなんだよ。青春って感じでいいなぁ」
帰り道、明は上機嫌でぼくの横を歩く。
脳内にアルフォードの『ボギー大佐』かスーザの行進曲のどれかが再生されているのだろう。明の足取りはおそろしく軽い。
「あれ、彼女できたって前言ってなかった?」
3日くらい前にそんな話を聞いた気がする。
「ああ、あれ? 別れた。どうも気が合わないっていうか、ハートにズドンとこなかったっていうか」
社交的なこともあって明は結構モテるほうだ。告白するより告白される回数のほうがたぶん多いのではないだろうか。
でも長続きしたという話はまったく聞かない。
「飽きっぽいんじゃないの?」
「いや、そんなことはない。想い続けたら俺は一途だ」
ぼくの推測は即座に全否定された。
明の理論で言うなら、これまで付き合ってきた彼女のことをみんな想ってなかったことになる。
羨ましいと思うより、逆に明の将来のことが心配だ。
「信じられねえと思うが、俺ってこれでも惚れた女にはとことん弱えんだぞ。そりゃもう見つめ合うと素直におしゃべりできないぐらい」
絶対嘘だ。
「ところでよ、本当に……その、胸とかあるのか?」
明の視線がぼくの胸元に突き刺さる。
「ちょっとだけだけどね。これするほどじゃないと思うんだけど」
そう言って胸元からブラジャーの紐を見せる。着けていると、締め付けられているせいかどうも落ち着かない。
(帰ったらすぐにはずそう)
着けているだけでぼくのなかの男の領域が掘削機で削られているように思えてしょうがない。
「ん、どうしたの明?」
明の挙動がおかしい。目が泳いでいたり、金魚のように口をぱくぱくさせたり。
「い、いいいや、ななんでもない」
呂律も回ってない。ひとりなら、この時刻ということもあって不審者に間違われてしまいそうなほど挙動不審だ。
顔色もせわしなく変わっている。
(どうしたんだろう)
と思っているうちに家の前まで来ていた。
「じゃ、また明日」
「お、おう」
ロボットのようなぎこちない動きで明は黄昏のなかに消えていった。

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玄関の前に立つ。
ドアノブになかなか手が伸びない。家に入るのにこんな勇気がいるとは。
スローを飲んだ誰かさんのときのように誰かが開けてくれるのを待つことも視野に入れてドアの前で立ち尽くす。あの話で結局ドアを開けたのは、
「──あの、どちら様?」
背後から声をかけられた。家族なら誰でも知っている馴染みの声。
振り返る。
そこには父さんがいた。驚愕を顔に貼り付けて。
「よ、陽……? ど、どどうしたんだ、その格好!」
ここまで慌てふためく父親の姿など見たことがなかった。カバンを落とし、顔面は蒼白だ。
それを観察する余裕はぼくにはあったけど、父さんには気の毒なくらいかけらも余裕はなさそうだった。
「……おかえり、父さん」
ほかにかける言葉が見つからない。
「陽、本当に陽なのか?」
とうとうぼくの存在を疑い始めてしまった。
おぼつかない足取りでぼくのところまでくると、両肩を掴まれた。そして胸をプッシュ。
胸はぼくの意思とは無関係にその手をわずかに柔らかく押し返す。
「お、おま…………手術してしまったのか!?」
「違うよ。手術なんか──」
「母さん、大変だ! 陽が!」
ぼくの話を聞かずに父さんは物凄い血相と勢いで家の中へ入っていった。
開け放たれたドアを見て嘆息する。それから父さんのカバンを拾ってぼくも家に入る。
「ただいま」
ダイニングから聞こえてくる父さんの叫びに、どう説明したものかと、ぼくは陰鬱な気分になった。

食後すぐ、家族会議が召集された。
ダイニングテーブルに5人──父さん、母さん、兄さん、弟、そしてぼく、がつく。
Tシャツにハーフパンツという格好のぼくに自然と視線が集まる。
白く薄い生地がいけなかったのか下のブラジャーが透けている。
別段恥ずかしいとも思わなかったのでそのままにしていたけど、それについて最初から父さんの怒りを買った。
「陽、なんだその格好は! 恥ずかしくないのか、そんなしたっ、下着を着けてっ!」
「お父さん、落ち着いてくださいな。下着は女の子なんですから着けていて当然でしょう? それとも大事な部分が見えていてもお父さんは平気なんですか?」
ナイスフォロー。母さんの理路整然とした発言に父さんは息を詰まらせる。
重苦しい空気がダイニングに充満していた。
その原因は父さんが発する負のオーラだ。そんなにぼくが『女』になったことが許せないのだろうか。
「今回集まってもらったのはほかでもない。陽のことだ。見ての通り女になってしまったわけだが、それは断じて認められん!」
あれから母さんによる説明で一旦は平静を取り戻したものの、ここにきてまたバランスが崩れてきている。
「まあいいじゃありませんか、お父さん。性別が変わっても陽は陽のままですよ」
母さんはぼくが女になってしまったことについて全肯定してくれた。理由は女の子が欲しかったから。とてもわかりやすい。
「そーだよ、父さん。見た目だってあんま変わってねーし、問題ないじゃん」
とは兄の弁。内容は正しくて協力的だけど…………なんか納得がいかない。
「これからは『陽姉ちゃん』って呼べばいいの?」
雪(ゆき)は黙っていてくれると嬉しい。
「ほらご覧なさいな。みんな問題ないと言っているじゃありませんか。それとも他に問題でも?」
父さんは婿養子で入ってきたためか、母さんには強く言えない傾向にある。
最初の威勢はどこかへ消え、残ったのは会社勤めで疲れた中年の姿だった。
「それに、お父さんが『男』にこだわっている理由はなんです? どうせ禄でもない理由なんでしょう?」
母さんの発する言の葉が父さんを切り刻む。結構辛辣だ…。
「しかし、世間にはどう……」
「そんなことは気にする必要はねーと思う。誰がウチに関心持ってんの? たとえ持ってたとして、陽を階段下の物置にでも閉じ込めるつもり?」
トドメとばかりに兄がばっさり切り捨てる。
「しかし、しかし……」
「ホントにおっぱいあるの?」
触ろうとしてきた雪の手を払いのける。もう小6なんだからいい加減に空気を読め。
「…………わかった」
誰も味方がいないことを悟った父さんはがっくりとうなだれる。あ、頭頂部がやばい。
薄毛の予兆から時計に目を遣ると、会議が始まってまだ10分くらいしか経っていなかった。早々の陥落だ。
たった10分なのに燃え尽きて真っ白になってしまったのだから、可哀想だとしかいいようがない。
終わったとみて各々テーブルから離れてゆく。
しつこく付きまとう雪をかわしながら、部屋にたどり着く。
窓を全開にし、崩れるようにベッドに倒れこんだ。
「……疲れた」
今日はいろいろありすぎた。
女になって、それを隠し通そうとして、結局ばれて、嘉神先生にあんなことをされて、明に励まされて、父さんに怒鳴られて……
振り返るだけで疲労の度合いが重くなっていくようだ。
(記憶を自分の思うようにできたらいいのに)
何も考えないということは難しい。なぜなら、何も考えないということを考えてしまうからだ。
疲れた…………
なにも…………
考えたく…………
ない…………

…………
……………………
…………………………………………


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