学校中があるひとつの話題で持ちきりだった。
それは芸能人の熱愛発覚でもなければ凶悪事件の発生でもない、ただの一般人の身の上話。
でもそれは身近に起こった大事件であり、何の危険もなくギャラリーできるとなれば野次馬根性が出てくるのが普通だ。
そしてその話題の渦中というか中心にいたのがぼくだった。
幸いだったのは、学年と組と名前はわかっても顔までは知らないということだった。
主に同級生、次いで3年生がぼくのクラスにやってきてはいたけど、ぼくを見つけることはできてない。
何しろ噂する群集のすぐ横にぼくがいるのに、それに気づいていなかったのだから。
みな開かれたドア越しから中を覗き見、なかにはクラスメイトにぼくの所在地を聞いたりしている。
まるでウォーリーを探せ、だ。
けど、そのウォーリーは探す人にまぎれている。つまり、本の中ではなく探す人の背後にウォーリーがいる状態。
……怪談だ。
予鈴が鳴り、人がはけたところで教室に入る。
一旦は静かになったものの、ぼくが入ると教室内がまたざわめいた。
「おい、あいつが…」
「え、あれが半田君?」
見ると見ないの中間あたりの視線が集中する。
足早に席についたけど居心地が物凄く悪い。
何も聞こえないふりも、ここまで露骨にひそひそ話が聞こえると維持できるものではない。
悪意もなく悪い噂でもないにしろ、こういう態度は帰りたいゲージを上げる役にしか立たない。
担任の先生が教室に入ってくるまでの長い長い時間を外圧と戦いながら過ごさなければならなかった。
やがて先生がやってくると、教室はぴたりと静まった。
朝のHRが終わる。
先生はぼくについては一言も触れなかった。気を遣ってくれたのだろう。
本人の前で『半田のことは気にするな』とはさすがにいえない。
先生が出て行くと、教室はまた雑然となった。
さっきと違ったのは、クラスメイトが競うようにぼくのところへやってきたことだった。
まず最初に来たのが女子の集団だった。
「えー、ホントにオンナノコになっちゃったの?」
「ウソー、すっごい可愛いじゃん」
口々に好きなことを並び立てる。それにどう応えたらいいのかわからず曖昧な笑顔で切り抜けるしかなかった。
「ちょっと抱きしめてちゃっていい?」
普段あまり面識もない人に抱きしめられる。
「ちょ、苦し──」
「あたしにもやらせてー」
「胸も揉ませてよ」
と代わる代わるやってきては頭を撫でたり胸を触ったり強烈なスキンシップの嵐をぼくの都合もお構いなしに見舞う。
しばらくして一通りやりつくして満足したのか女子軍団は去っていった。残されたぼくは呆然としたままの真っ白な灰になっていた。
誰か囁き詠唱祈り念じろとでも唱えた?
一波去って、次に寄せてきたのは男子の集団だった。
「おい、マジで女になっちまったのか?」
「下着とか女物?」
「ちょっと触らせてくれよ」
「パンツ見せてくれ」
セクハラっぽい発言が多いのは何でだろう。
次々浴びせかけられる質問に答えられるはずもなく、次第に言葉の海の中にうずもれてゆく。
「付き合ってくれ」とか「ヤらせろ」とかいう段階まできたところで授業開始のチャイムが鳴った。
軍隊アリが去ると、ほぼロストしたぼくが残された。
もみくちゃにされながら、でも、悪い気持ちにはならなかった。
みんな肯定的に受け取ってくれているようで、むしろ嬉しい。ただ人との接触が増えただけで何も変わらない。
拒絶され、排斥されることも可能性のひとつとして考えていたぼくにとっては、それが否定されたいま、感謝すらしている。
恥ずかしいので口には出さないけど。
「人気者だな、陽」
前の席の明が上半身だけこっちを向けて笑った。
「動物園のパンダに近いけどね」
珍しさなら、もしかしたら特別天然記念物のトキにも勝っているかもしれない。
でも、物珍しさが消えたとき、日常に戻るのか、それとも離れていってしまうのか……。
「まあ人が集まるのも無理はねえな。転校生みたいなもんだし」
転校生とは言いえて妙だ。
「でも、それだけであんなに寄ってくるものかな」
「そりゃ顔見知りだからな」
顔見知りの転校生。それは確かに普通の転校生とはワケが違う。基本情報があるとないとでは近寄りやすさが変わってくるからだ。
でも、それを差し引いてもあの騒ぎはちょっと行き過ぎだと思う。
次の休み時間もああなると思うと……
どうやって逃げるかの算段を考えなければいけないようだった。
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「大人気だな。陽様ブームってか」
昼休み。
ぼくと明は教室から逃げ出し、屋上のさらに上、給水塔にいた。ここは屋上の入り口から死角になる。
さすがにここまでやってくる人はいないようで、喧騒とは無縁だ。
「そんなブーム嫌なんだけど」
昼休みまで3回あった休み時間は、教室はいうなれば人の洪水に侵食されていた。
逃げの算段はいくつか考えてはいたけど、そのどれもが失敗に終わった。あの人数を相手にして逃げられるわけがない。
押し寄せる人波は、思い返したいまでも恐ろしい…。
ほとんどの人が知らなかったぼくの顔も、写メを撮られそれが学校中に回ったらしく、もうこの学校のほとんど誰もが知るまでになっていた。
それどころか先生まで珍しそうにぼくを見るのだから始末に負えない。おかげで当てられる回数が飛躍的に増えた。
だからこうして一息つけるのは本当に助かる。もしインターバルなしで5時間目に突入したらたぶん──いや確実に死ねる。
「なんかぼくやつれてない?」
明に顔を近づける。ぼくの感じだと、朝から2キロは軽く減った。果たして他人の目にはどう映っているのか。
「明?」
返事がない。ただの銅像のように大口開けた状態で固まっている。
この状況は朝のとそっくりだ。
あのときは上半身裸でうろついていたのが原因だったけど、今はそんな格好ではないし、そのほかに思い当たる節もない。
(昨日もこんなことになったような……)
とはいえ場面も場所もまったく違う。それに、結果が同じでも原因が同じとは限らない。
1発のホームランだって、ストレートを打たれたのかスライダーを打たれたのか、打つほうもフルスイングだったのかバントだったのか……いろいろありえるの
だから。
「もしかして、また保健室行き……?」
まさかこのまま放っておくわけにもいかない。とはいえ運搬は不可能に思えた。
ただでさえ力がないのに、この赤錆も浮き出た鉄製のハシゴは2人分の体重を支えられるほど丈夫に見えない。
……やっぱり諦めた。
風に吹かれるに任せていればいずれ復活するだろう。
と。
湿気をはらんだ強めの風が吹き抜けた。空を見上げると、朝のような青空はどこにもなくなっていた。
暗い灰色の雲が目に見える速さで動いている。この前兆は……
白っぽいコンクリートに黒い点が穿たれる。数個だったのが瞬く間に数十になり、数え切れなくなる。
「ちょっと、明。雨だよ、雨!」
未だに固まっていた明をガクガクと揺り動かす。景色を反射するだけだった目に光が宿り、状況を理解してくれたようだ。
急いで昼食を片付け、ハシゴを下る。
屋上の入り口にたどりついたときには既に雨は本降りに近かった。
太陽はどこかへと隠れ、昼間だというのにひどく薄暗い。まるで別世界のようだった。
教室はこれまでいた廊下と違い電灯がついていて、ここもまた別世界だった。
ぼくが教室に入ると、一瞬の沈黙のあと、何やらどよめきが起こった。
(前にもこんなパターンがあったような)
ぼくを見ているのは一目瞭然だ。おかしなことは特にない気がするので、まだ見慣れてないせだろうと勝手に解釈して席につく。
すると間髪いれずに男子の軍団が押し寄せてきた。
「そういえばもうそんな季節だよなぁ」
「いいもん見せてもらってアリガトウ」
「夏といえばこれだよな。季語にしたっていいぐらいだ」
口々にわけの分らないことを発する。理解不能だ。
「なにが季語なの?」
たまらず聞く。
一人──確かサッカー部の多賀君だったか──が女子の目を気にしながらぼくの耳元で囁く。
「透けブラ」
ハッとなって胸元を確認する。
雨に濡れたカッターが身体に張り付き、布越しに薄いピンク色のブラジャーが存在をアピールしていた。
それはもう形がくっきりとわかるくらいに。
顔の部分だけ体温が上がっていく感じがして、反射的にぼくは胸を手で隠していた。
「み、見ないでよ!」
うわずった声が情けない。
「いいじゃん、見られても減るもんじゃないし」
「透けブラ! 透けブラ!」
普通なら絶対に女子に対してできないことでも、相手が『元』男だと平気でできるようになるらしい。
この数々の言動のなかに遠慮という文字がどこにも見当たらない。
このままだと穏やかな心を持ちながら怒りに目覚めてしまいそうだ。
相手にするのは得策ではないと判断し、囃しを聞き流しながら、濡れたままの制服をどうするか考える。
下はそうでもないけど、上は雨に当たらなかった部分はほとんどない。
着替えはもちろんない。タオルなど拭くものもない。
だとすれば自然乾燥に任せるしかないけど、この湿度では裏干しと体温乾燥させたところで乾きは期待できそうもない。
一度気になりだすと不快感ばかりが募る。視線もあるし、どうにかしないとストレスが溜まる一方だ。
なんとなく周囲を見渡す。
助けになりそうな人は…………いなさそうだ。
「半田君、ちょっといい?」
そう思っていたのに、助けは意外なところからやってきた。
いつの間に目の前にやってきていたのか六条さんがつい今までいた男子を押しのけてそこにいた。
「着替えあるから、良かったら使わない?」
このタイミングは渡りに船というほかない。断る理由もなかったのでお言葉に甘えることにする。
制服を受け取り、さっそくリボンを解き、微妙に体温が移った濡れたブラウスのボタンをはずしてゆく。
が、その動作は六条さんの手によって阻まれた。酷く慌てた様子でぼくに何かを訴えかけている。
『ま・わ・り』
声にならない声でそう告げられる。
まわり。
教室とその周りにいる全員の男子の目がぼくに注がれていた。
(またやっちゃった……)
16年の蓄積があるので、どうも『男』の感覚で行動しがちだ。──まあそれが当然なんだけど。
その行動が結果として『女』として恥ずべき行為になってしまうらしかった。
とはいえ矯正は難しい。人生の9割9分は男だったのもあるけど、何より『女』として行動するのを拒否しているからだ。
でも実際には完全な男として生活はできない。そうなら必要最低限のレベルで『女』として振舞えばいいだけの話だ。
そう割り切ってしまえば、幾分か気も楽だ。
(人前で着替えができないとなると…)
トイレくらいしか思い当たらない。
「じゃあ、トイレで着替えてくるから」
そう言って席を立つと、教室の内外から魂のこもったブーイングが発せられた。
「なんでだよぉ〜! ここで着替えれば楽でいいじゃないかよぉ〜!」
「生着替え見てえ! 見せろ!」
欲望と怨嗟の混じった声を振り切るように駆け出した。
トイレの前まできたところで、足が止まった。
(どっちに入ればいいんだ…?)
ぼくは男なので男子用に入るのが普通だ。何も深く考えることはない。
と、いつものように男子用に入ったら悲鳴を上げられた。
同じ男に変質者扱いされたことにヘコみながら、どうしようかと男子用と女子用の中間のあたりをウロウロする。
女子用のに入っても悲鳴が聞こえそうで怖い。
トイレひとつでここまで迷うことになるとは。これではまるで初めてエロ本を買おうとしている中学生ではないか。
「やっぱりこんなことだろうと思ったわ」
助けの手を伸ばしてくれたのはまたしても六条さんだった。
「制服貸してそれっきりだと無責任だしね。さ、こっちよ」
手を引かれて女子用のトイレに入る。もちろん初めての体験だ。心臓がドキドキする。
更衣室に並んで男の入れない聖域のひとつなのだからそれもしょうがない。
空いている個室に入り、鍵をかける。こうすると男子用のと何も変わらない。少し気分も落ち着いた。
落ち着くと、今度は別のことが頭に浮かんだ──女になってから初めてのトイレのことだ。
初めてのトイレは戸惑うことばかりだった。小でも座らないとできなかったことが特に大きい。
今朝には母さんにトイレについてのガイドラインも教わった。
それによると、用の足し方にもいろいろと作法(?)があるようだった。終わったあとには必ず拭け、とか。
(なるべく考えないようにしよう……)
ボタンをはずし、制服を取り払う。続けて借りた制服に手を伸ばすと、綺麗にたたんであった制服のあいだからタオルが出てきた。
こういう細かな気遣いは嬉しいの一言だ。六条さんはきっと将来いいお嫁さんになれる。
微妙に湿った顔にタオルをあてがうと、匂いが鼻をふわりとくすぐった。自分の家のものでない匂い。
各家庭には固有の匂いがあるとぼくは思っている。
その原因や理由はよくわからないけど、確かに家によって匂いが違うのだ。例えばローソンとセブンイレブンのように。
そんなことを思いながら上半身を丹念に拭ってゆく。
拭き終えるとさっきまでの不快感はどこかへ消え、シャワーを浴びたあとのようにすっきりした気分になった。
これで心置きなく新しい制服に袖を通すことができる。
着てみると驚くほどサイズがぴったりだった。同じ背格好ということになるけど、それはイコールぼくが貧弱を意味する。
(少しは鍛えないと…)
鍛えに鍛えた末、マッチョになった自分の姿を想像してみる。
…………
似合わない。
「ありがとう、六条さん。すごく助かったよ」
六条さんは待っていてくれていた。
「昨日保健室まで連れて行ってくれたし、そのお礼だから気にしないで」
「明日……は無理かもしれないけど、洗濯して返すから。あ、あとこれもありがとう」
制服はもちろんのこと、タオルも洗ったほうがいいだろう。こういうものは、一度借りたら洗って返すのが礼儀だ。
「そこまでしてくれなくてもいいよ。どうせ家に帰ったら洗うものだし」
ぼくの返事も待たず、手に持ったタオルを奪われてしまった。
これではぼくの気は済まないけど、本人がいいと言うならそれに従うしかない。
「あ、あとすごく助かったって思ってるなら『六条さん』って他人行儀みたいな呼び方はやめてくれない? なんだかすっごく気になるの」
「えーっと……」
「あたし、友達とは名前で呼び合ってるのが普通なの。だ・か・ら!」
そういうことかと、心の中で手をぽんと打つ。
「えー……単……さん…?」
「『さん』も禁止」
「う……単…………ちゃん」
すごく恥ずかしい。
最後のほうはかすれて消えかかっていたけど、六条さん…………じゃない、単ちゃんは満足したようにウンウンと頷いていた。
上機嫌で教室に戻る彼女の姿を見送り、どんな心変わりがあったのか考えてみる。
(確かに女になってから接する機会は増えたけど…)
図書委員、保健室への運搬、朝の出来事、そしていま。
春から昨日までと、昨日から今を比べてみるとイコールどころかこの24時間以内のほうが喋った時間がたぶん長い。
(それだけが理由とは思えないけど)
友達になるまでのプロセスにはいろいろあるとはいえ、ここまで友達になる宣言をされたことは初めての経験だった。
いままでの場合は、いつの間にかそうなっていた、という自然発生的なものだったし。
女の子の世界はまた違うのかな、と釈然としないまま時間は過ぎ、放課後になっていた。
ちなみに、陽様ブームはぼくが校門を出るまで続いた。
暇な人たちだ……。