──ここはどこだろう。

暗くて何も見えない。
それになんだか身体が窮屈だ。深海にいるみたいに上からも下からも、横からも圧力がかかっているような感覚がある。
手を顔の前にかざしてみる。
目をはっきり開けているはずなのにやっぱり見えない。ただ体温がその位置と存在を教えているだけだ。
純粋な暗闇。
そのなかに閉じ込められでもしたのか。声も出ず、物も見えず、音も聞こえず、何もできない。

──誰?

その声も喉から先には出なかった。
人の気配がした。自分以外の誰かが近くにいるのがわかる。
何も見えないはずなのに人の形が気配の方向に見えた。影絵のように真っ黒で、でも暗闇とは別の黒色の形が。
それは推理漫画に出てくる犯人を連想させた。それか幽霊か亡霊か。
──!
一瞬何が起こったのか理解できなかった。
影は瞬間移動したかのようにぼくの上にいた。覆いかぶさるように。
「────」
何事か言われた。けど耳栓をしているかのように声はぼくの耳の奥まで届かない。
影には顔がなかった。のっぺりとした影色の平面があるだけだ。
その顔がぼくの顔に近づき──有無を言わせず唇を奪われた。
唇がぶつかる一瞬あとに舌が割って入ってくる。不快感ばかりを呼び起こす生暖かい舌がぼくの口の中でうごめく。
そんなことをされて、でも抵抗しようにもできなかった。
身体は全身に接着剤をかけられたみたいに固まり、動けない。口と目蓋の開閉だけが自由の限界だった。
なおも『攻撃』は続く。
吐き気すら催した。涙が目じりから滲んで、頬を伝う。
そんなぼくを見て影が口の端を吊り上げていた。いまやっていることを愉しんでいるように。
唇が離れて、ぼくは盛大にむせ返る。でも咳の音も掻き消え、ゴホゴホと身体の中だけに重く反響するだけにとどまる。
それでも喉に唾液が溜まって気持ち悪かったのが少しだけ解消された。
けど爽快までは程遠い。
「────」
また何かを言われた。ぼくを嘲笑っているようにも罵っているようにも見えた。
ただひとつ確かなのは、ぼくに対して温情なんてものを持っていないということだ。
なにか物のように、愛玩動物のように見下している──そう感じた。
べとべとになった口のまわりを影の手が這い回る。顔をよじって逃げることもできない自分をもどかしく思う。
手はだんだんと下へ向かって移動を始める。
頬、首、肩、胸──
そこになって初めて、ぼくが何も身に着けていないことに気づいた。
乱暴な手つきでこねるように胸をもてあそぶ。
それは快感を与えようとかそういうものではなくて、ただ自分の愉しみのためだけにやっている行為だった。
ぼくには痛みと不快感しか残らない。
──やめて!
心の中の叫びは表まで届かない。届かないけど、それでも叫ぶ。でも結局は届かない。悪循環の見本。
手が下る──胸、脇腹、下腹部。
触られた部分は例外なく怖気が走った。
そして。
一番触れてほしくないところへと手は侵入を果たした。
割れ目をなぞられ全身に鳥肌が立つ。不快感があとからあとから際限なく湧いて出くる。
脳に「なんとかしろ!」と身体から警告が発せられる。
止める手段なんかないというのに。
指を差し込まれて、痛みにまた涙が溜まる。屈辱の分もいくらか混じっているかもしれない。
快感をまったく覚えないまま、それでも身体の奥からとろりと何かがぼくの奥から流れ出す。
「────」
影は酷く愉しげだった。
おもむろに自分の股間に手を伸ばし、何かを引っ張り出す。
いまのぼくになくて、かつてのぼくにあった物を。
それは太く大きく天に向かって起ち上がっていた。
──嫌だ!
これから行われるであろうことは容易に想像できた。
挿れるのだ。
アレを。ぼくのアソコに。
恐怖が全身から湧き上がる。それだけはダメだ。
──それだけは! そこだけは!
思い切り叫んで、でも喉が熱くなるだけだった。
言葉を失い、身体も動かせないとなると、他に何もすることはない。
何かがぼくの股間にあてがわれた。柔らかいようで硬いモノが入り口を探すように上下に左右にぼくを擦った。
そして。
あるところで動きが止まった。
一瞬の停止のあと、再び動き出す。
『前』に向かって。

──ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!

かつて味わったことのないような痛みが走り──

------------

「──ぁぁぁぁ!」
転げ落ちるように目が覚めた。
激しく息を切らし、全身は汗でびっしょり濡れていた。
身体はまるごと心臓になってしまったかのように脈打ち、耳に聞こえるほど高鳴っている。
まだ夢の中にいるような気がして、ぼくはかぶりを振った。
嫌な夢を見た。
やけにリアルな夢。寝覚めが最悪な悪夢。
(よりにもよって犯される夢を見るなんて…)
夢の内容ははっきりと頭の中に残っていた。シーンのひとつひとつが鮮明に焼きついているのだ。
口の中を舌でかき回され、胸をいじられ、舐めるように全身を触られ……
アレがぼくに差し込まれた瞬間は思い出すだけで身震いする。
夏の熱い直射日光をまともに浴びているのに、氷の中に閉じ込められたかのように酷く寒い。
こんな夢を見たのは昨日の雪との一件のせいだろうかと思考を巡らす。
(夢は見る人の願望を表すってよくいうけど……)
男に犯されたいと思っている?
(そんなことは絶対にない!)
そうだ。そんなことをぼくが望んでいるわけがない。こんな夢を見たのもなにかの間違いだ。
否定する材料はいくらでもあった。
でも肯定する材料も確かにあった。
(でも、もし男に戻れなかったら女として生きていくことになるんだよね……。結婚もすることになるだろうし、そうなると子供も作…………)
想像して脳が沸騰した。いま頭の上にヤカンを乗せたらたぶんお湯を沸かせられる。
子供を作る──それはつまり『そういうこと』をすることに他ならないわけで。
……コウノトリやキャベツ畑が本当ならまだ気が楽なのに。
(──って、なにを考えているんだ、ぼくは!)
これではまるで男に戻れないことが前提になっているようではないか。
ぼくは男に戻ると決めた。何が何でも。
(いつまでもこうやって下らない考え事をするから、変なことまでつい考えてしまうんだ)
スッキリさせようと、ぼくは洗面所に向かった。

「おはよう、父さん」
階段を下りると、父さんのちょうど起きてきたところのようでばったり鉢合わせた。
「ああ、おはよ……」
と言いかけたところで動きが止まった。昨日も同じようなことがあった気が。
今度こそもしかしてフラッシュマンの能力をいつの間にか身に付けてしまったのかもしれない。
一応ぼくに『不備』がないか確かめてみたけど、上半身裸でもないし、下もちゃんとハーフパンツをはいている。
結論、自責なし。
「ま、いいか」
さっさと洗顔を済ませてしまおう。
洗面台の前に立つ。
否が応でも鏡に映った自分の姿を見ることになるけど、
「あ」
唐突に、父さんが固まった理由がわかった。
原因は汗で肌に張り付いたTシャツだった。それだけなら問題はない。で
もいまのぼくはブラジャーを着けていなかった。どうやら昨日はずしてそのままにしていたらしい。
そうなると胸の形も先端もくっきり浮き出ているわけで。
(学習能力がないホントないなぁ…)
気をつけなければという意識は皆無だと再認識する。
いや、無意識下で女であることを頑なに拒否しているせいかもしれない。
受け入れられない現実から逃避しようとする自己防衛の手段のひとつとして。
……ただ単に男の生活の延長にいるように考えているだけかもしれないけど。
どちらにしても、しばらくは女として振舞わなければならない。
なるべく波風立てなくないし、そのためには不自然は禁物だ。女が男として振舞うのは不自然さが際立つ。
いくらあまり『元』と変わらないとはいえ、みんなの認識ではすでにぼくは『女』なのだ。
そう見なされている以上、そうすることが最善だ。
「気乗りはしないけど」
そういえば、と思い出す。
今日はたしかあの日から3日目にあたる。
『ぼく』から何らかのコンタクトがあるはずだ。それは同時に元に戻る方法を聞きだす絶好の機会でもある。
「絶対に…………戻ってみせる」
鏡の中のぼくは決意に頷いた。

------------

「陽ちゃん、出かけるわよ」
朝食をとっていると母さんは開口一番そう言った。
「どこへ? というか何で?」
「それはもちろん陽ちゃんの服を買いによ」
「別に服に不自由はしてないけど?」
男のときに着ていた服がそのまま流用できるので、着るものについては問題はないはずだ。
季節の変わり目でもないし、改めて買いに行く理由が見つからない。
「ダメよ。女の子なんだから、ちゃんとそれ用のを買わないと。それに、」
「それに?」
「下着も、ね?」
いまのところぼくが持っているのは2着。中一日でローテーションしないといけない計算になる。さすがにそれは無理がありすぎる。
──とは思うけど。
「いいよ。いつ戻るかわからないんだし。ひょっとしたら今日にでもいきなり治っちゃうかも」
無理があろうがなかろうが、これ以上の『女性化』は遠慮したい。それこそアイデンティティの危機だ。
「ダメよ」
そんなぼくに、母さんはにっこりと微笑んだ。
魔神の笑みとでもいうのだろうか、ゴゴゴゴゴゴと聞こえてきそうな迫力がある。
ついでに負のオーラが背後に見えた気がした。
と同時に身の危険を感じる。
「……はい」
白旗。あっさりとあっけなく。
「いっぱい可愛いの買いましょうね」
オーラが負から正に転じ、でもそのままの笑顔で母さんは不吉なことを口にする。
頼むから、それだけはやめて……。
2時間くらいあとの自分を想像して、その予想は絶対にはずれそうもなかった。

車に揺られて30分。
ぼくと母さんは、いま流行り(?)の郊外型ショッピングモールにきていた。
『1000台駐車可能!』と書かれた看板の横を通り過ぎながら、これから起こるであろうことを考えると、それだけで気が重い。
「まずは下着売り場ね。ちゃんと測ってもらうのよ?」
下着はまずスリーサイズを測るところから始めるらしい。
男のときはS、M、Lの3種類くらいしかなく、そこから選べば済むというのに。
「面倒くさい…」
それにわざわざ計測するほどでもない身体つきだ。
砂時計には程遠い平坦なライン。
本物の女の子ならコンプレックスを持つんだろうけど、ぼくにとっては『男』に近いぶんありがたいとさえ思う。
だからわざわざ『そういうふう』に矯正するのはどうにも理解できない。

異世界が広がっていた。
現実に目の前に広がっているのに、別の世界に来てしまったのではないかと思うほど異質な空間が存在していた。
これまで来ることもなく、近くを通り過ぎることはあっても見ないようにスルーしていた、公共の場にありながら男の侵入を許さない聖域。
入ろうものなら即座に変質者のレッテルを貼られ、そして通報されカツ丼を食べることにもなりえる禁断の地。
それを目の当たりにして、ぼくは早くも怖気づいていた。
足が前に進まない。
眩暈さえする。
それもそうだ。ワ○ールのCMだって気恥ずかしく思っているのに、本物を見せられて竦まないわけがない。
「どうしたの陽ちゃん。行くわよ」
異分子を存在を決して許さない空間があったとしたら、ここがまさしくそうだろう。
『男』のぼくがその中に入ろうとすることは、清水の舞台から飛び降りることと同義だった。
「そんなところに立ってないで」
手を取られ、強制連行される。
こうしてぼくは男子禁制の結界の中に足を踏み入れることになった。

「じゃ、お願いしますね」
「承りました。どうぞ、こちらへ」
店員さんに連れられ試着室に入る。中は思ったよりも広く、人ふたりが入ってなおスペースにはかなりの余裕があった。
もう2人くらいは入れそうだ。
「上下とも脱いでいただけますか?」
満面の営業スマイル。これはもう覚悟を決めるしかないようだ。逃げ道があっても、外には鬼が待ち構えている。
言われるままTシャツとデニムを脱ぐ。
「ブラもはずしてくださいね」
やっぱり。実寸を測らないと意味がないとはわかっていたけど、赤の他人──しかも異性の前で裸になるのは恥ずかしい。
……いまは同性だけど、そんなことは関係ないし、気休めにもならない。
なるべく店員さんのほうを見ないようにしながらはずす。はずした後も顔を合わせる度胸はとてもではないけど、なかった。
測ってもらうあいだ、ぼくは斜め上に視線を固定していた。
「はい、まずはバストから測ります」
「!」
冷たいメジャーの感覚に肌がびっくりした。
その通常味わえない感覚が記憶を呼び起こす──前に胸囲を測ったのはいつだっただろう。
小学生のときには何回かあった記憶があるけど、中学に入ってからはなかった気がする。
4年ぶりにこんなことをしたかと思うと、なんだか感慨深い。
次に測るのは大学の入学式か成人式用のスーツの採寸のときか。また2年くらいあとにも同じことを思い出すのだろうか。
「はい、もう結構ですよ」
そんなことを考えているうち、採寸は終わっていた。
教えてもらったスリーサイズは3つの数字とも見事にニアピンだった。ちなみにAカップらしい。
おいくつですかと聞かれ、ぼくが高2だと答えたら店員さんはまず驚き、そして「大丈夫です。すぐに成長しますよ」と励まされた。
……余計なお世話だ。
「こちらがお客様のサイズに合った並びでございます。何かありましたら遠慮なくお申し付けください」
店員さんは一礼するとどこかへ行ってしまった。
そしてぽつんと残されたぼく。よく見たら母さんもいない。
勝手に選んでいいものかと迷った末、勝手にさせてもらうことにする。
「適当でいいよね、適当で……」
とはいうものの、なにを基準に選べばいいか見当もつかない。
色とりどりの下着が整然と並べられている光景に目がくらみそうになる。幻覚作用のあるお花畑に迷い込んでしまったかのようだ。
形にもデザインにもいろいろあって、何が良くて何が良くないのか判断するには材料と経験が足りなさすぎた。
「スポーツタイプ? ハーフ? 3/4?」
聞いたことのない専門用語の羅列に頭が混乱する。さっきの店員さんを呼ぼうかとも思ったけど、恥ずかしいのでやめた。
こんなときこそ母さんがいなければいけないのに、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
助けを求めるように周囲を見回す。
「────!」
どくんと心臓が大きく脈打った。

まさか。

想定外だった。
こんなところに現れるとは。
下着売り場の程近く。
エスカレーターのすぐ横。

そこに『ぼく』がいた。


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