女子更衣室。
男子なら誰しもが憧れ夢見る(と思う)女の花園。
女子トイレと双頭をなす禁断の地。
それに入れて、しかも『中身入り』なのだから本当なら喜ぶべきことなのだろう。けど、そんな気にはどうしてもなれない。
向こうが門扉を開け放って誘っているのだ。何か裏があってもおかしくない。タダより高いものはないのだから。それか孔明の罠。
「あの、やっぱり」
回れ右をしたら単ちゃんが物凄い笑顔で立ち塞がっていた。どす黒いオーラの中に不動明王が見えるのは気のせいだろうか。
逃げ道は塞がれ、残った道は扉の向こうにしかない。取られることがわかっていながら前進しかできない歩の気持ちを味わいつつ、開けた。
(無理だ)
入るなり頭の中に浮かんだのがこの言葉だった。何が無理かというと、全てが。理屈もなく、なにもかもが無理。
更衣室に入ったときには開けていた目も、入った直後に反射的に閉じていた。
最後に網膜に焼きついた映像は、室内中央に2列に奥まで並んだ背もたれのない青いベンチとそのあたりで談笑しながら着替える人、人、人。
…………下着姿の。
「半田君、赤くなっちゃって可愛いー」
「本当にいいの? ぼく男なんだけど……」
「半田君だったら、男のときでも別に良かったよね」
「確かにねー」
「カワイかったし」
更衣室中にどっと笑いが起こる。きっと外にあるお日様も笑っている。
今の台詞を1週間前のぼくに聞かせてあげたい。……やっぱり入るような度胸はないだろうけど。
それにしても順応力が高すぎる。ぼくが女になってしまったときもそうだった。度量が大きい人が多いと、こんな弊害も出てくる。
もっと警戒心を持ってもらいたい。……いまのぼくみたいに。
「陽くん、こっちこっち」
呼ばれるまま犬もしくは鯉のように手の鳴るほうへ、誰も見ないように足元の床だけを見て進む。
「ロッカーは特に誰のでもないってことになってるから、どこでも使っていいよ」
「う、うん」
左右に並ぶ金属製のロッカーを指差しながら単ちゃんが説明する。わざわざ着替えている人の横をすり抜けて。
……当然、ぼくも同じ道を通るわけで。
目を閉じていたらぶつかってしまうので、いやでも着替えているシーンとか下着姿とかが目に入ってきてしまう。一生分の不可抗力を使い切りそうだ。
なんだか頭がクラクラふらふらしてきた……。更衣室酔いなんて症例があるなら、たぶんぼくはその最初の患者だと思う……。
一通り巡って、室内中央に程近いロッカーで単ちゃんは歩みを止めた。
「更衣室はこんな感じ。よくわかった?」
何について理解すればいいのかわからなかったけど、とりあえず首肯しておく。
「じゃ、着替えよっか」
答えは合っていたようだ。単ちゃんは満足げにうんうんと頷いて体操着を脱ぎ始め──!?
「って、何でそこで着替えて…!?」
「更衣室だから当たり前じゃない」
「そうじゃなくて……。男の横で着替えるのはどうかっていう話で…」
「陽くん、女の子じゃない」
「いや、いまはそうだけど、実際は男というか心の中は男というか」
「それがどうかした?」
どうやらぼくは完全に『女の子』としか見られていないようだ。割り切っているのか細かいことを気にしないのか、とにかく豪胆だ。
(あれ? どこかにこんな性格の人がいたような…)
いや、そんなことを考えている場合ではない。ここを抜け出すためにさっさと着替えを終わらせて出よう。
青いベンチのうち一つに制服一式を置き、誰も見ないように目を固く閉じ、体操着を脱ぎ、ブラウスに手を伸──
「かわいいブラしてんじゃん。どこで買ったの?」
突然声をかけられて心臓が跳ね上がった。こうなると反射的に相手を確かめようと目を開けてしまうわけで。
「──!!」
さらにびっくりした。声をかけてきたのは知らない人だった。でもそんなことは驚くことではない。問題なのはその格好だった。
「なっ、なっ、なんで、した……ぎ!?」
下着上下というあられもない姿を見せ付けるように立っていた。
見せられているこっちが恥ずかしいと思うくらいに堂々と。ファッションモデルのように。
「ショーツも見せてよ。お揃いなんでしょ?」
物怖じもせず、不敵な笑みを浮かべ、知らない人が笑顔で迫ってくる。
何を考えているかわからないせいか、「うー」とか「あー」とかうめき声を上げながら襲い掛かってくるゾンビを連想してしまう。
というかなんだろう、この積極性。どうやら向こうはぼくのことを知っているみたいだけど、ぼくの記憶の中にこの人のデータはない。
得体の知れない恐怖心から「誰?」とも聞くこともできず、身体は勝手に後ずさりを始め、すぐにベンチで行き止まる。
助けを求めてまわりを見ると──人が集まっていた。
けど、いいタイミングで助けに入ろうとするような人たちではなくて、コロッセオで剣闘士と猛獣が戦うのを積極的に楽しむ観客。たぶん。
その観客もせめて着替えてからくればいいのに、それすらもどかしく思うのか半分脱いたままとか半分着替えただけとか、中途半端な格好のままでギャラリーし
ている。
──と、その中で単ちゃんと目が合った。
「どうせ脱ぐんだし、見せてあげたら?」
その目は本気で、顔は「なんで脱がないの?」と不思議がっていた。
女子の間では下着は見せ合うもの、ということだろうか。
真実はどうあれ、このままでいると脱がされそうだったので、仕方なしにブルマを脱ぐ。自分の行動に自信を持てないけど……。
脱いでみて、布一枚しか差がないのに、この恥ずかしさの度合いがまるで違った。
「女の子同士なんだし、そんなに恥ずかしがらなくたっていいのに。ま、それもカワイイんだけどね」
この状況はドイツの軍人だってうろたえる。恥ずかしがるな、と言われても無理だ。そもそも何が恥ずかしいのかよくわからないし…。頭が混乱してきた。
「でさ、どこで買ったの?」
「これは、郊外のショッピングモールで……」
嬉々として間合いを詰めてくる知らない人から視線をはずしながら質問に答える。
「ねぇねぇ、誰と行ったの? まさか……芹沢くんとか!?」
次の質問は前からではなく、横からきた。振り向くと、前にいる知らない人と同じ格好をした知らない人(B)が目を輝かせていた。
「行ったのは母さんとだけど。……でもなんでそこに明の名前が出てくるの?」
「だって半田くん、いつも芹沢くんといるじゃない。二人一組みたいな感じで」
「それは……、親友だし、明といると楽しいから、かな」
「別に付き合ってるわけじゃないってコト?」
「付き合うもなにも、男同士だし…」
たぶん明もそう思っている。それに、最初にいまのぼくを受け入れてくれた。
行動におかしいところは多少あったけど、激変というほどではない。
ぼくの突然の『変化』に戸惑っているだけで、慣れてくれれば『気にしない』性格だし、いつも通りに戻ってくれるはずだ。
……そうなる前に男に戻りたいけど。
「でも、このままだったら半田君に芹沢君を取られちゃうかもね。アンタが好きなの知ってるんだから」
「そ、それは言わないって約束──!」
知らない人(C)が口を挟んでから勝手に話がそこら中で盛り上がりはじめた。
それにしても、明がモテるとは知っていたけど、ここまであからさまに好き宣言をするほど人気があるとは思わなかった。
女子のあいだでは、どの女子がどの男子を好きという情報はすべて知れ渡っているようで、
でも男子のほうに流れてこないのは情報が完全に統制されているからという話だった。
「いい? 男子には言っちゃダメだからね」
耳ざといはずだけど、ぼくが男子であるという話はまったく耳に入った様子もなく、『ここだけの話』を矢継ぎ早に聞かされることになり、
「今度はそっちからの話を聞かせてね。情報はギブアンドテイクで成り立ってるんだから」
いつのまにか見返りを要求されていた。
「明くんってどんなコがタイプかわかる?」
「芹沢君の趣味は?」
根掘り葉掘り明のことを聞かれ、聖徳太子のような能力を持ってないぼくは答えられず、さらに質問が覆いかぶさって、まさに泥沼な様相だった。
目の前のとんでもない光景と途切れることのない質問で頭の中はぐるぐる回り、遠ざかりはじめた意識のなかで、
着替えることができない更衣室の存在意義について考えていた。
……
…………
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ついさっきのことは、なかなかぼくを立ち直らせてくれなかった。
熱いお風呂に入ったあとのようにのぼせ上がり、女子の姿を視界のどこかに捉えるたび、下がりかけた熱が再燃した。
質問攻めにあっているときはまわりの景色なんて目に入らなかったけど、見てないわけではなく、しっかり網膜と脳裏に焼きついてしまっていた。
ちょっと顧みれば詳細で鮮明な映像が……。
「陽、どこ行ってたんだ? それになんか顔が赤いぞ」
「…………更衣室」
「なにいぃぃぃぃぃ!? マジでか!? どんな感じなんだ? 詳しく教えてくれ!」
「ちょっと、明。……声大きい」
どんな感じと言われても、あれは説明のしようがない。一方的にたかられただけで、ぼくに主導権なんてものはなかったし。
それに、ただ女子が着替えていただけだ。
「ごめん、今はそれを思い出したくない……。頭がパンクしそう」
というかもう頭の中から爆発して、髪型がアフロになっている気がする。
「そっちのほうは、あれからだどうだったの?」
「20周走らされて、そのあとはずっと説教。女がいたからってそのザマはなんだとか言っちゃってさあ。絶対ぇ鬼頭はゲイだな。
あー、それからなんか知らんが俺だけ追加で走らされた。お前が半田を参加させたからこうなったとかなんとか」
茹っていた頭が一瞬にしてさーっと冷えた。明は笑ってはいたけど、その下には明らかに不快感がにじんでいたからだ。
「ごめん……ぼくがいたばっかりに」
走らせたのは鬼頭先生であっても、走らせる原因をつくったのはぼくだ。特に追加の件は、ぼくが自発的に参加したのだから完全な冤罪だ。
明は「気にすんなよ」と言っていたけど、気にならないわけがない。何か罪滅ぼしでもしないと済まない──親友ってそういうものだと思う。
「じゃあ、明日創立記念日で休みだから一緒に遊びに行こうぜ。俺は気にしてないし、そんなトコだろ?」
「うん、わかった」
昼食を奢るくらいで走ったぶんの埋め合わせは精神的にもカロリー的にもできないとは思ったけど、明がそう言うなら仕方がない。
けど、せめて明日は接待する側に回ろう。
(楽しんでもらえるにはどうしたらいいだろ……?)
更衣室のことを追い払うように明日のことに没頭した。