もう何も考えられなかった。受け入れ難い現実に、ただ涙を流れるに任せて、横になっていた。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
階段を踏む足音が響いてきた。それは慌ただしく、駆け上がるといった様子だった。
音から窺える体重の軽さが、その人物が誰であるかを知らせる。
「豊!? 豊、どうしたの!?」
それは果たして母親だった。
心配のほどを表わす乱暴さで、扉がノックされる。
「どうしたの!? 豊! ねえ、返事しなさい! 」
そこで、豊は我に返る。この姿を見られるわけには行かない。母親に余計な心労を掛けたくなかった。
「……なんでもないよ、なんでもないから」
豊の声で、一応はノックが静まる。だが母親の心配が治まったわけではなかった。
「なんでもないことないでしょ! さっきの声は一体なんだったの、あんな声出したことなかったじゃない!」
その言葉と同時に、ドアノブを捻るガチャガチャという音が聞こえる。
駄目だ!
力の抜けた体に鞭打って、内開きのドアに跳びかかろうとするが、間に合わない。
無情に扉が開かれていった。
「ああ……」
せめて視線に触れる部分を少しでも隠そうと、身を縮こまらせる。
室内に足を踏み入れた母親は、倒れている豊にすぐさま駆け寄った。
「どうしたの……一体……大丈夫?」
そう声をかけてから、室内を見渡す。
とても、母親の顔など見られなかった。
「大丈夫だから、なんでもないから……」
ぐずつく涙声でそれだけ繰り返すのが精一杯だ。
「だってあなた……どう見ても普通じゃないわよ」
そう言って、豊の肩に手をかけ、顔を見ようとする母親。
豊の体が、ビクリと震えた。ただそれだけの接触でも、華奢になった肩の感触で肉体の変容を悟られるかも知れないと思った。
「やめてよ!」
叫んで母親の手を振り払う。だが、それが早まりであったことを下に向けたままの視線に飛び入った光景で思い知らされた。
引き下げられたままのズボンからは、紛れもなく女性のものである股間が覗いていたのだ。
「あ……! 」
絶望的な心情で母親の顔を見上げる。母の視線は間違い無く、豊のその部分に注がれていた。
だが、その顔色を見て豊は違和感を憶えた。
そこには落胆だとか悲しみといったような感情が窺えなかった。
強いて言うならば、ただのショック。我が子に手を上げられたことによる、それだけだ。
続いて母親の口から出た言葉は、信じられないものだった。
「ご、ごめんなさい……急に触ったりして……ただ豊の様子がおかしかったから」
え?
有り得ない反応だと思った。
息子の体が一晩のうちに女性へ変わったのを知って言う言葉としては、余りに不自然だった。
まさかよく見えなかったのだろうか?
それならその方がいい。芝居をし通すことにした。
「ほ、本当になんでもないんだよ。ただゴキブリが出て……」
我ながら苦しい言い訳だとは思ったが、途中で切るわけにはいかない。
「着替えの途中だったしボーッとしてたから、つい大声出して転んでみっともない格好になってたのに母さんが来るもんだから、動転しちゃって……」
ひどい嘘だな、と思った。こんなので騙される人、居るわけない。
「そ……そうなの?」
思った通り、母親の声音は不承不承といった感じだった。
だが、どうでもここは誤魔化し切るしかない。
「ごめん、母さん、出てってくれる……? 汗かいてシャワー浴びたいから準備しなきゃ」
言ってしまってから、しまった、と思った。シャワーを浴びるだけならこのまま手ぶらで風呂場に行けばいいだけなのだ。母親を追い出す必要はない。
次の言い訳を考えていると、母親は「あ、それじゃガスつけておくね」とだけ言い残して部屋を出ていった。
それはこの親子のいつものやりとりだった。豊が拒否したとき、母は必要以上の慎重さで息子に立ち入ることを避けた。
だが取り敢えず危機は去ったのだ。
こんな格好で学校に行く気などとても起きないし、その為の準備にシャワーを浴びて変わってしまった体と直面させられることは気が重かったが、
豊は一息安堵して一階へと踏み出した。
階段の段差を一足一足降りる度、焦燥が去っていき、代わって暗鬱に気分が沈んでいく。これから僕はどうなるんだろう。
誰が見ても女の子にしか見えない体を持った、男。そんな人生、想像もしたことがなかった。
これからは男として生きて行くんだろうか、女として生きて行くんだろうか。
いずれにしてもこれまでの豊の人生が粉々に壊れてしまうことだけは、簡単に分かった。
涙はさっきから流れ続けていた。目が痒くなるぐらい拭っても拭っても、次々溢れ出して止まらない。
両親に聞かれる恐怖から、嗚咽だけをどうにか抑えこむ。
死にたい、と初めて思った。
「母さん、替えの下着なかったから、新しいの洗濯機の上に置いておいてもらえますか?」
ほどなく母から返事が返る。普段の豊は母親をこんな風に使ったり決してしなかったが、今服のまとめてある居間に行くわけにはいかない。
少々心苦しかったが、お願いすることにした。
朝から疲れきった手で、寝間着のボタンを外していく。下からは当然のようにブラジャーが出てきた。
もう胸の感覚で分かっていたことだ。今更驚きはしない。
何故こんなものをつけているのか、という疑問も考えるのはやめてしまっていた。
ただ、たとえ自分が身につけているものでも、やはり女性ものの下着に手をつけることは躊躇われた。
数瞬の逡巡のあと、下端に指をかけ万歳をするようにして上半身から抜き取る。
乳房を引っ張るような感じで上に上がったブラジャーが抜けたとき、胸が少し揺れた。大きいのかどうかは分からない。
しかし男性の体ではどこにもない、お尻よりもまだ柔らかい肉の塊が二つ、自分の胸についているというのが実感されるのは奇妙な気分だった。
パンツを下ろすときはもっと要領を得なかった。
くびれた腰と大きなお尻の段差に引っ掛ったゴムを、限界まで広げるようにして頂きを通過させる。
避けきれずお尻に当たった指から伝わる感触は、まるで座って押しつぶされたことがないように、柔らかかった。そして無駄に大きかった。
お尻が感じた感触、指に伝わった感触、その両方がとてつもなく醜いものに思える。
お尻の下部まで下げて、洗濯物入れに若干寄り掛かるようにしてバランスを保ちながら、片足ずつ抜き取っていく。
裏返ったブラジャーとパンツは、まとめて折り重なった洗濯物の一番奥に突っ込む。部屋で脱いでくれば良かったな、と少し後悔した。
バスルームに入って、ノズルを捻る。ほどなくシャワーヘッドから温水が迸った。
熱い。でも、熱量を調節する気は湧かなかった。肌を焼く熱湯を頭からかぶる。
両手を髪の中に突っ込んで、掻き乱す。さらさらとして、一本一本の細さを感じさせる髪質。
こんなところまで変わってしまったのかと、虚ろな笑いが零れた。
閉じた目蓋を伝う水流が涙の筋を混じり合って、消していく。
乳房を這った温水が、雫を作り、その雫がポトポトと下腹を打つ。
シャンプーを取って、手にニ三回吹き掛け、そのままじっと見つめる。
呆れるほど小さな手の平、細い指。ベチャ、と薬液を髪に擦り付けてから、裏返した手の甲を見る。
脂肪がついてないように、皺も寄らずすらりと伸びた指。その先にちょこんとついた、貝殻の欠片のような爪。
普通なら綺麗な手なんだろう、な。今はただおぞましいだけだった。
乱暴に髪を掻いて、泡立てる。こんな髪、抜けてしまえばいいと思った。
髪の毛を全部後ろに撫でつけて、洗顔剤を顔に塗っていく。
こんなときでも丁寧に普段通りの順番で体を洗って馬鹿みたいだな。
自嘲の笑いが出るが、シャワーに当たっている間は、現実に目を向けずにすむような幻想があった。
シャンプーを綺麗に洗い流す。
いよいよ、体を洗わなければならない。
タオルにボディソープを吹きつけ、擦り込む。
まずは腕からタオルを滑らせていく。
首から上を洗っているときは気にならなかった、上腕に押しつぶされる胸の感触。
沈み込むような、弾き返すような、生まれて初めての感覚に戸惑う。
乳首がわずかにこすれた。ただそれだけのことで、じん、と打ち身のような熱さを伴う痺れに似たものが、乳房から上半身に走った。
それが恐くて、極力頂きには触れないよう、慎重に手を動かす。
順番通りなら、次は胸と腹部を洗う番だ。
意識が、胸の頂き、ぽつんと佇む乳首に集中する。それとともに全身の血液がそこに集まっていくような気がした。
鎖骨から、タオルで触れる。そこから、少しずつ下へ。
撫でる以上の力を入れることが出来ない。ほんの少し乱暴に扱うだけで、壊れてしまいそうな恐怖感があった。
続いて乳房の下の付け根。少しずつ、少しずつ、頂きに向けタオルが近寄っていく。
どんな風に洗ったらいいか見当がつかない。
どう触れてもまた、あの感覚が襲ってくるような気がして仕方なかった。そのまま乳首を避けて周りを撫で続けていると、乳房が熱を持ってきた。
うかされたように、頭がぼうっとしてくる。
バスルームの熱気に当てられただけではないことは分かっている。結局、乳首だけ洗わずに、腹に移った。
腹筋が無いのではないかと思える、腹だった。全身どこもかしこも、贅肉の膜に覆われている。それを苛めるようにゴシゴシとこすった。
下半身は、陰部を除いて毛が無かった。
元々無毛に近い豊ではあったが、産毛の存在すら窺えない足は、やはり女性のものでしか有り得ないと思った。
左手にタオルを持ち替え、泡を陰毛に立てる。それすらも今は女性の肉体の一部であることが異常に意識されて、気恥ずかしさが襲った。
裂け目の、上辺りに位置するクリトリスは包皮に隠されていて、ペニスがそのまま萎縮したような形だった。
自分の男性自身の象徴であったペニスの縮小が、脳内で現在の境遇とリンクし、止まっていた涙が情けなさにまた溢れだす。
包皮を剥き、内部の淫核に泡のついた手で触れる。
きん、といった感じの金属質な尖った刺激が走ったが、それ自体は亀頭に触れたときの感覚と似通っていて、大して戸惑わずにすんだ。
ああ、乳首もこんな風にすればいいな、と考える。
更にその下の裂け目。中まで洗ったほうが良いようには思えたが、体内にたとえ自分の指といえど挿入する勇気は出なかった。
仕方なく上面をこするだけに留める。
後は大して気にかけるような部位は残っていない。
息をついて、残った部分をゴシゴシとこすっていく。太腿、すね、足の先、ぐにゃぐにゃとした感触が気持ち悪く、
また、自分の体を洗っているのではないような気分になりながら、最後に背中を洗って、温水で泡を全て流す。
単純作業に移ると、頭の中にあったわだかまりが、甦ってくる。
さっきの母の表情。
小柄とはいえ、剣道を熱心に修めてきた以前の豊の肉体は相応に引き締まっていた。
にも関わらず、肩を掴まれても気付かれなかったなどということが、果たしてあるだろうか。この華奢で弱々しい体で。
それにあの視線。
さっきは見られなかったなどと楽観的に結論づけたが、今思い返せば、豊の股間は確かに朝の陽光の中、浮かび上がっていたのだ。
青年としてあるべき一定のサイズのものが、どこにも見当たらない陰部。
それを母は確かに目撃したはずである。あのとき見上げた母の顔は、確実に豊のその部分に向けられていたのだ。
衣装の問題だけなら、万一には母の衝動的な悪戯であるということも、あるいはあったかも知れない。
だが、自分が身に着けていた分は?
そして何より、息子が女性に変身しているのを知っていながらの、あの小さすぎる反応。
それらを結びつけて、豊は考えてはいけない結論を得てしまっていた。
……もし、この戸を開けて。その先の洗濯機に、豊の考えを裏付けるものが乗っていたら。
今度こそ、発狂するかも知れない。いや、既に発狂しているのかも。
泡は完全に洗い流された。向き直った先に在る、戸。
この狭いバスルームから、豊の新しい、忌むべき人生に繋がっているかも知れない、戸。
足が竦む。下半身の痙攣は、すぐに全身をガタガタと奮わせ始めた。
声なき声が、脳を巡り、口を暴れまわり、全身を侵していく。
イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ。
右手が、戸にかけられた。
朝日に照らされた、洗面室。
少しずつ開けていく、戸の先の世界。
真っ直ぐ、バスルームの扉に相対する位置にある洗濯機の、上。
母が、自分のために、自分の着替えのために用意した、下着。
きちんと畳まれたそれは、 ブラジャーと、パンツ……女性ものだった。
母は、自分を、「娘」として認識している。
ペニスの無い股間に驚くはずがない。娘だと思っていたのだから。
間違っているのは、自分なのか。女性の体に、女性の服、娘という認識。
自分が、自身を男であると思い込んでいるだけなのか。
世界は全く正常で、自分は完全に気でも狂ったのか。
この、記憶も? ただの思い込みなどと、思えなかった。
両親と過ごしてきた生活、学校での自分、ライバルと競い合った剣の道。
それら全ての光景に鮮烈なまでに刻み込まれている自分の姿は、間違い無く男性のものだった。思い込みなど、有り得ない。
「……あっ……!!」
絶叫の迸りそうになった口を、抑える。また、世界が、重力が、回り始めた。
宇宙空間に放り出されたような、不安定な感覚。止めど無く溢れる涙。
ゴボッ
嘔吐感がこみ上げたと、思う間もなく、指の間から吐瀉物が噴出す。
「うぅっぐっうっうげっげっえっへっぐ……」
胃の内容物が次々吐き出されていった。それら全てが出尽しても、嘔吐感はまるで治まってくれなかった。
「……助けて、助けて……母さん……英……光」
膝をつき、自らのへどろの海に突っ伏す。
意識が急速に遠のいていった。