窓から射す朝日が早く起きろと俺の顔に降り注ぐ、朝が来たと認識した頭が急速に覚醒していく。
耳元でやかましく鳴り続ける目覚し時計を叩くように止め、ベッドから這い出して洗面台へと向かう。
バシャバシャとつめたい水で顔を洗い身支度を済ますと俺は独り暮らし故の簡単な朝食を済まし会社へと向かった。
以前の俺は朝が苦手だった。母親にすがる子供のように布団にしがみつき時計の針にいつも急かされる。
そんな俺を変えたのは彼女……杉田恵の存在だった。
3月、人事課から渡された書類を見たとき熱い何かが沸き起こり、4月に彼女を見たとき俺は……恋に落ちた。
季節は秋から冬へと移ろい、遠くの山々も白い衣を纏いはじめていた。
「もうすぐ1年か……」
俺は遠くの山々を見つめながら1年前に失った部下であり親友でも会った男……鈴木恵一の事を思い出していた。
恵一とは大学からの付き合いだったが何でも腹を割って話せる数少ない親友だった。
卒業後もその関係は続き3年前今度は上司、部下の関係となり、恵一が俺を呼ぶ呼び方も"直人"から"先輩"へと変わったが、
公私共に変わらぬ友情を保ってきた。
恵一が後輩の理恵と結婚することになった時、俺は自分のことのように喜び彼らを祝福した。
だがその喜びもすぐに悲しみに変わった。
婚前旅行へと出かけた彼らを交通事故という不幸が襲った。幸い理恵には大きな怪我は無かったが恵一の命の炎はそこで燃え尽きた。
遺体の損傷が激しかったのか葬式でも彼の亡骸は見ることが出来ず、後に残ったのはかけがえの無い友を失った虚しさだけだった。
だが……冬が去り春を迎え俺も理恵も明るい表情を取り戻した。それはきっと杉田恵……彼女に出会ったから……
「すまないな恵一……」
なぜだか恵一に申し訳ない気分になり、今はもういない親友に許しを乞う。
だがその瞬間も彼女のことしか考えていない自分が俺は少し嫌になった。
同時刻……杉田家。
PiPiPiPiPi……
けたたましい電子音が僕を眠りの世界から現実へと引き戻した。
「ふぁ〜〜あ、いい夢だったのに……」
今でも1年前、まだ男だった頃の夢をよく見る。あのまま暮らしていたらごく普通の当たり前の生活を送っていただろう。
だけど今ではそれを信じていた自分が信じられなくなってしまった。
「おーい恵、遅刻するぞー」
1階のキッチンから杉田さんの声がする。僕を"杉田恵"として蘇らせた張本人。始めは怨んだけど今では感謝している。
それにこの人のあまりに純粋な父親としての想いを知ってしまった今、彼を責める気にはなれなくなり僕は"杉田恵"を演じることを決めた。
もっとも………いまだ照れくささが消えることは無く"お父さん"とは呼べずにはいたが……
洗面台で寝癖がついた髪を直し身支度を整えると目の前の鏡には魅力的な少女の姿があった。
自惚れでは無いがもし他人として出会っていたのならばその姿に目を奪われていたに違いない。
しかし、自分の動きそのままに動く彼女は紛れも無く自分自身だった。
1階のキッチンに降りるとテーブルには既に朝食が並べられていた。
「おはよう、恵」
「おはようございます」
今だ他人行儀な挨拶しかできない自分を嫌な顔一つせず大事に扱ってくる杉田さん。
それに何一つ応えることができない自分が少し嫌になる。目の前でお味噌汁が美味しそうな湯気を立てるが箸が進まなかった。
「ん? どうした? 早く食べないと遅刻するぞ」
「ん・・・ごめんなさい、ちょっと考え事」
「何か困った事があったらなんでも言ってくれ。君をこんなにしたのは私のせいなんだから」
「そんなこと無いよ……杉田さんには感謝してる、ただ……何にも恩返しできない自分が悔しくて」
そんな僕の言葉に杉田さんはお茶を一口飲み、優しげな表情で答えてくれた。
「恩返しなら既にしているよ。君が娘の姿で生き続けることが私にとって一番の恩返しなんだ」
「でも・・・」
「じゃあ、とりあえず1つだけ、お願いしようかな。朝食を食べて早く仕事に行ってくれ。"娘"が会社を遅刻するのを親として見過ごせないからな」
そう言って僕の頭を撫でる杉田さんの手は大きく、そして暖かかった。
朝食を終え車に乗り込み会社へと向かう。1本、また1本と電柱が車窓を流れていく。
それを見るたびに会社に……理恵の元へと近づく気がして毎日この道を通るたびに嬉しくなった。
だが、車を降り社屋のロビーに向かった僕を待っていたのは理恵ではなく別の人物……松崎高志だった。
「杉田さんおはよー」
「あっ・・・おっ、おはようございます。」
僕は正直この男が苦手だ、この男と初めて会ったのは入社式の時だった。その時はボロを出さないよう理由をつけて男を避けた。
その後、ボロを出さないように恵ちゃんの部屋でこの男について調べたが恵ちゃんの日記にもアルバムにも男の姿は無かった。
唯一あったのは高校の入学式の写真の隅、友人と微笑み会う恵ちゃんを見つめる男の姿だけだった。
それ以来事あるごとにこの男は僕に話しかけ気を引こうとしてきた。
だが慣れない身体、ばれてはいけないという余裕のない生活、ましてや女としてキャリアの浅い僕には男の誘いを適切に断る余裕は無く、
今までずるずると適当な理由で逃げ続けていた。
「元気ないねー恵ちゃん大丈夫?」
不自然な返事を返したボクを調子が悪いと思ったのか松崎は僕の額に手を伸ばそうとした。
だが、僕はその手を……振り払った。
別に意識して払ったわけではない、ただ無意識に男の手を払っていた。
「あっ……ごめんなさい……大丈夫だから心配しないで」
それだけ言うと逃げるようにその場を後にした。
だがその行動が僕自身の未来に影を落とすとはこのときは思いもよらなかった。