声の出所はわからない。どうやら天井の照明のあたりにスピーカーがあるようだが、はっきりとはわからない。
士狼は上を向いて叫ぶ。

「なんで俺はこんな風になっているんだ!」
『なんで、と申されましてもねえ』

 とぼけたような様子が声の調子からはっきりとわかる。
士狼の顔は怒りで紅潮し、頭は心臓が脈動するたびに波打つようだ。
口を開いても、様々な感情が爆発して声が出ない。

『近日中にそのお部屋から出してさし上げますよ。こちらの都合もつきましたからね。
それまで、自慰でもして時間を潰すことですね。
慣れていないと、男性を迎え入れる時に大層痛いといいますから。
もっとも、痛がってくだされば、それはそれで趣のある初体験になるでしょうがねえ』

 男はまた低い声で笑った。

『私があなたに期待するのは、抵抗する事です。目一杯、逆らってくださいね。
もっとも、脱走しようとしても無駄ですよ。
もし、ここを出られたとしても、あなたには戸籍も何もない、この世に存在しない人間なのですから。それに……』

 男の声がそこで、少しの間止まった。

『坂元弓奈さん、でしたっけ? 辻華産業でOLをなさっている。可愛らしい方ですねえ。
随分とあなたの事を探しておられるようですよ?』
「ゆ、弓奈に何をした!」
『何もしておりませんよ。ええ。まだ、何も……ね』

 愉快そうに笑う男の声はすぐに消え、室内は再び静寂に包まれた。
 士狼はしばらくの間拳を握り締めて天井をにらんでいたが、やがて全身の力を抜き、ベッドに横たわった。

 閉じ込められた当初は、食事も警戒して摂らなかった士狼だが、2日を過ぎる頃には目眩が生じて、
脱出するためには体力が必要だと自分を慰めながら、仕方なく手を付けた。
見た目は病院食のようだったが、味はよかった。
それどころか、下手なレストランで食べるよりもよほどしっかりとした調理がされているようだ。
 水を飲むのも、洗面台の前にとりつけられた鏡に映る自分の姿を見たくなくて、
喉がどうしようもなく渇くまでがまんしている。
肩のやや下、脇腹あたりまである髪が鬱陶しかった。
 なによりも、動く度に揺れる胸がじゃまだった。もちろん、ブラジャーなど着けていない。
もしあったとしても、着ける気はなかった。
 時間をどうやってつぶすかを考えることが、士狼の日課だった。

『自慰でもして時間を潰すことですね……』

 男の言葉が脳裏に蘇る。
 また頭に血が昇った。
 悔しかった。もし、目の前に声の主がいたら、殴ってやりたかった。
大学生時代はボクシング練習生としてトレーニングを続けていたこともあって、腕っ節にはそれなりの自信がある。
本来は素人に振るってよい拳ではないが、この場合であれば許されるであろう。
 だが士狼は、自分の手を見つめて絶望に浸る。
 水仕事もしたことがないような滑らかな肌と、桜貝のような形の良い爪。
男の手で包み込んでしまえるのではないかと思えるほど小さな拳。細く美しいラインを描く両腕。華奢な肩。
どれをとっても、男に対して致命傷を与えられるとは思えないパーツばかりで、
むしろ守られる側に属すべき存在でしかなかった。
 これが自分でさえなかったら、素直にかわいいと思えただろう。しかし士狼は男であるという意識がある。
 それにもかかわらず、現実は……。

 何十、何百回目かのため息さえもが、カナリアのさえずりのように室内に染み入る。
だが士狼の試練は、まだ始まってさえもいないのである。

 天井の灯りが瞬いて、また、朝と思われる時間がやってくる。
 既に監禁されて十日が過ぎようとしている。いや、もしかしたらそれ以上の日数が経っているのかもしれない。
 弓奈が自分を探していると聞かされてから、士狼は彼女の身をも心配しなければならなくなった。
退屈からは解放されたが、身を焦がすような焦燥感はより一層強くなった。
食事と排泄以外の時間は、ベッドで過ごしてばかりいる士狼だった。
 数日前に初めて、士狼をさらったと思われる者から声だけとはいえ接触してから、彼は運動を試みたことがあった。
 だが、すぐに彼はそれを止めた。体を動かせば動かすほど、胸の上で踊るものが、
否応なく彼の意識に自分の肉体の状態を刻みつけることになることに耐えられなかったのだ。

『そろそろ汗で気持ち悪くなっていませんか?』

 突然の声にびくっとなって、スピーカーがあるだろう天井の照明のあたりを見つめる士狼。

「ここから出せ」
『ほ! これはなかなか……2週間も放置されている人とは思えませんね』
「2週間だと?」

 士狼は男の言葉に驚く。予想以上に時間が過ぎ去っていたようだ。

『今からドアを開けてあげます。シャワーでも浴びたらどうです? 着替えも、トイレの紙の予備も用意してありますよ』

 声と共にドアの方から微かな音がした。だがその音は士狼にとって、雷鳴のように聞こえたのであった。

 士狼はベッドから飛び起きて、足が滑るのにもかまわず扉の方へ駆け寄る。
胸がぶらぶらと左右に揺れるのも、今は気にならなかった。ドアのノブに手をかけようとしたが、滑った。
 手の平が汗でびっしょりと濡れていた。
 平衡感覚が狂って部屋が回っているように感じ、心臓が倍に膨れ上がったように思えた。
頭の中で心臓が大きな音を立てていた。
 深呼吸をしてノブをつかむ。金属のひんやりとした感触が官能的ですらあった。
手をひねる。音を立ててドアが開く。
 心臓が大きく、どくんと跳ねた。
 士狼はもはやスピーカーの音に気を払っていなかった。
もし少しでも冷静なところがあれば、そこから低く小さい笑い声が聞こえてきていることに気がついただろう。

 ドアが開いた先にあった光景は、今までいた部屋とほとんど変わりのない部屋だった。
廊下でもあるのだろうと想像していた士狼は、愕然となってその場に立ちすくんだ。

『意外でしたか? 申し訳ありませんねえ。御期待にそえなくて』

 ドアの向こうの部屋の天井から楽しそうな声が響いてきた。堪えきれない笑いが声の端からこぼれ落ちている
 崩れ落ちそうになる膝に手をやって、辛うじてへたりこみそうになるのを堪えた。
体が震えていた。解放されると一瞬でも思った自分に腹が立った。
相手がそんなことをするはずがないのは容易に想像できる。

『まあまあ。そこでそうしているより、新しい部屋でも探検されたらどうです?
簡易シャワーもありますし、シャンプーやソープ、もちろん替えの服もあります。
すっきりすればまた気分もよくなりますよ』

 そしてまた、士狼は一人取り残されたのである。


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