時間の流れに気を払わない生活がどれだけ続いたのだろうか。
季節は二度の冬を越え、春の息吹きが山々に感じられるようになっていた。
 繭美の髪の毛が腰まで伸びて、一度肩甲骨のあたりで切りそろえ、
再び髪が腰まで伸びるようになった頃、初めての来客があった。
晶と何人かのメイド、そして彼女の教育係などをのぞけば久し振りの目新しい顔になる。
 すっかり女性らしくなった繭美は、紬を着ていることもあり、
長い黒髪の古めかしい髪型と相まって、まるで愛らしい日本人形のような印象を与える。
 あの監禁された場所から解放されてかなりの月日がたったはずなのに、繭美は一向にそれ以上成熟する気配を見せなかった。
だから外見はまだ、15〜16歳の少女である。
しかし内面からにじみ出る雰囲気はもう、大人の女性のものに近い。もちろん、床の中でもだが。

「晶さん、こちらはどなた?」

 久しぶりに会う晶にしがみつきたいのを堪えて、繭美は訊いた。
自分が子供のように晶にときめいてるのが客人にわかりはしないかと、頬を赤らめる。
二十数年生きてきたはずなのに、まるで小学生のようにはしゃいでしまう自分がおかしかった。
 そんな彼女を晶は暖かく抱擁し、時には彼女に甘えて一時の安らぎを求めてきた。
何の仕事をしているか詳しくは教えてくれなかったが、かなりの地位にある経営者だということは確かなようだった。
 尋ねても何も答えず、硬い表情の晶に繭美は少し不安を感じたが、客を放っておくわけにはいかない。

「この方を客間へご案内さしあげて。洋間の方がいいかしら」
「かしこまりました」

 メイド頭の女性に命じて、客人を招き入れる。男は軽く頭を下げて屋敷へと入ってゆく。
 繭美の心に、得体の知れない不安が渦巻き始めていた。

 自室へ戻って本を読もうとした繭美を、年若のメイドが呼び止めた。
客間に来てほしいと主人が言っていたとのことだった。
珍しいこともあるものねと思いつつ、身だしなみを整えて客間へ向かう。
 客間には晶と、先程の客人が座っていた。晶が言った。

「人払いはしてある。繭、いや高前士狼さん。あなたに真実を伝える時が来たようです」

 軽いショックを感じて、繭美は晶の横の椅子に座った。男は眼鏡越しに、繭美の目を見つめて言った。

「突然ですが、あなたがさらわれてからあそこを出るまで、どれだけの月日がたっていたと思いますか」
「一年? もうちょっとですか?」
「いいえ、あなたは気付いていないだけなのですが、目覚めた時に既に四年が経っていました。
もっともその大部分は培養液の中でまどろんでいただけなのですが。
そしてあなたが行方不明になってから、六年の月日が流れています」

 繭美はあまりの時間の経過に茫然となった。
培養液という言葉も気にかかるが、隣に座っている晶が深刻な顔をしている方が気になった。

「あなたは誰なんですか?」
「医者、とでもいいましょうか。医学に奉仕する一研究者ですよ」
「もしかしてあなたは、あの‥‥」
「そう。あなたとマイク越しに話をした者です。まず、どうやってあなたが女性になったかをご説明しましょう」

 男は説明を始めた。彼女にはほとんど理解できなかったが、おおよその内容はなんとか把握することができた。
 まず脳を特殊培養した体へと移植。神経節を接合させる処理に4年のうち大部分が費やされたという。
それと同時に特殊な薬品によって脳のシナプスを変換させ、女性の脳へと変化させてゆく。
まずは体の反応が最適化され、徐々に精神が女性の方へとシフトされてゆくのだという。
 このプロセスには通常の生活を送りながら一年あまりが必要だということだった。
このシナプスを変換させる薬品は食事に混ぜられており、
この中には各種の肉体や精神の調整をする薬品も入っていたのだという。
 士狼が女性らしくなってきたのも、脳の構造が女性のものになっているからだったのだ。

「もともとは性同一性障害の治療薬の一つとして開発されたものなのですが、こういう場合にも役に立ちます」
「でも、そんな凄い薬が出ていたなんて聞いたことがない」
「世間には公開されていない物など、山ほどありますよ。それだけじゃありません」

 男は続けた。脳移植はもちろんのこと、クローン臓器やマイクロマシンによる無切除医療、
そればかりではなく、遺伝子操作やテロメアの細胞分裂時計巻戻しによる肉体の調整や再構成、
脳細胞や神経節の移植や再生など、事実上、不老不死に極めて近い医療が完成されていたのである。

「どうしてそれを公開しないんですか」
「最大の理由は、莫大な費用が必要だということです。
それにあなたは、世界が人で埋め尽くされてもいいと思いますか?
選ばれた者のみがそれを享受するのは当たり前の事。
誰もが死を免れるのならば、人口はたちまち爆発的に増加して、地球環境は致命的に破壊されるでしょう」
「誰が選ぶんです? あなた達か。あんた達は神にでもなったつもりなのか!」

 立ち上がって問い詰める繭美、いや士狼の口調はいつしか男のものに戻っていた。
今まで築き上げてきた物を全て取り払って、士狼は詰め寄った。だが男は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。

「そうですね。ある意味では神といえるかもしれません。踏み入ってはいけない神の領域にね。
なにしろ本来は死んでいたあなたを復活させられるくらいですからね」

 そう言って男は、黄ばんだ新聞を差し出した。
日付は彼が接待をした後の記憶があいまいな日の翌日だった。
紙面には多重交通事故によって5人が死亡したという記事があった。だがそこに、彼の名前はない。

「どこにも俺の名前はない。嘘だ、嘘をついているんだな」
「嘘ではありません。坂元弓奈さんとお付き合いしているあなたを、我々は監視していました。
そして病院に運ばれる前にあなたを引取り、生命を維持させたのです。あなたは幸運だったのです」
「幸運? それに、なんで弓奈が関係するんだ?」
「あなたは晶さんのことをどう思いますか?」

 唐突に、男が訊いた。

 男の言葉と共に士狼は、晶の方を振り返った。苦汁に満ちた表情に、彼の苦悩を感じ取ることができる。
ジグソーパズルの最後のピースが頭の中でぴたりとはまり、士狼は、全てを悟った。

「弓奈‥‥弓奈なの? 晶は‥‥弓奈なのか?」
「そうだよ、士狼。僕はかつて坂元弓奈だった。今は‥‥文岸晶だ」
「嘘、だ」
「嘘ではありません」

 呆然と立ち尽くす士狼を前に、男は話を続けた。
 弓奈は古く遡れば江戸後期に端を発する、歴史ある複合企業体の御曹子が部下の女性に産ませた私生児だった。
彼女は母子家庭で育ったが、母は父親のことを語らずに早くに亡くなってしまった。
 現会長である祖父の、かなり年がいってからできた一人息子である弓奈の父は、なかなか結婚しようとしなかった。
弓奈の母を妻にしたいと望んでいたのだが、父の許しが出なかったのだ。
 そうこうしているうちに、海外出張で航空機事故に遭遇し、彼はあっけなく逝ってしまった。
いかに秘された医学が一般水準をはるかに凌駕していても、遺体すら発見できなくてはどうしようもない。

「僕の家はね、昔からの強いしきたりで直系の男子が継ぐ事になっているんだ。
だから僕は、男になった。そして士狼‥‥君は僕のために犠牲になってしまったんだ。
いや、僕が君を女性にすることを望んだ」
「嘘‥‥だ」
「本当だよ。家を継ぎ、男となることを承諾する代わりに、配偶者として君を選んだ。士狼の意志は無視してね」

 晶の声に苦汁がにじみ出ているのがわかる。
それでも繭美、いや士狼は彼を責めずにはいられなかった。

「どうして! どうして先に説明してくれなかったんだ!」
「説明して納得してくれたかい?
私は本当は巨大グループの後継者で、男になって家を継がなければならない。
だからあなたは女になって、私と結婚してくれって!
‥‥そんなこと、わかってくれるわけ、ないじゃない」

 いつしか女言葉になっていた晶の目から、涙がこぼれた。

 弓奈は士狼を探した帰り道に、ある男に呼び止められた。
彼は彼女の父親の家から依頼された者だった。彼は弓奈に、彼女の本当の生い立ちと、士狼の事故の事実を伝えた。
そして彼を助けたければ、父親の家に戻り、家を継げと告げたのだ。
 最初は戸惑ったものの、弓奈は士狼のためならばと了承した。
しかし、まさか男になれなどと言われるとは想像だにしていなかった。
彼女は悩み、そして初めて会う祖父に相談した。
 その結果、彼女は男になることを受諾し、許してはくれないだろうと悩みつつも、かすかな望みと共に士狼を女性へと変えた。
 晶は弓奈の遺伝子を元に、男性として再構成した肉体に脳を始めとする神経を移植をされた。
脳神経の変化を促するために、第二次性徴前の若い体に移植をしたのだ。
士狼が晶少年と出会ったのは、最後の加速成長前だった。
 女性から男性へと脳のシナプスを変換させるのは、その逆に比べると施術期間も数分の一で済むのだそうだ。
なんでも、新生児は男女間の脳の構造に差はあまりなく、男はその後のホルモン分泌などによって変化が生じるが、
女性はそのままのためだという。

「どうして聞いてくれなかったの?」
「不安だったから‥‥。僕が男になったら、きっと士狼は離れてしまうと思ったから。女になんてなってくれないだろうって」

 士狼は、そっと晶の手を取って微笑んだ。

「バカ‥‥晶はバカだよ。私がそんなこと、言うわけないじゃない」
「でも」
「デモもストも無いでしょ。私はあなたが好きなの。
弓奈だったって見抜けなかったけれど、あなたの瞳に惹かれたの。
あなただから、体を許せるの。他の人に抱かれたならば、多分もう、生きていられないと思うの」

 自然に言葉が出てきた。心がじんわりと温かい。
 二人の目と目が合った。上半身が寄り添いあい、口付けを交わす。

 しばらく目をつぶって互いの唇を味わっていたが、医師の咳払いで二人は我に返った。

「きゃっ!」
「これは申し訳ない」
「いえいえ、こちらこそ」

 三者三様の気まずい思いをしながら、再び椅子に座り直して話の続きを聞く。

「実は最初の段階で、そちら様‥‥文岸様との意思の疎通に齟齬がありまして、
多少、そのぅなんといいますか‥‥通常よりも感覚が敏感になり過ぎてしまったようで」

 男は軽く頭を下げた。額には汗が浮いている。
確かに本人の意志を確認 せずに無理矢理女性にしてしまうとなれば、
何やら良からぬ理由があってのことと誤解されても仕方がない。
その言葉の裏に潜む暗黒面を感じ取りながらも、繭美は顔を赤く染め、うつむきながら小声で言った。

「気にしないでください。私、この体が気に入ってますから‥‥」
「そのお影で、可愛い声で鳴く繭が手に入ったんだからね」
「あ、晶のバカッ!」

 繭美は恥ずかしさを堪えきれず、晶を握り拳でぽかぽかと叩く。すっかり女の子の仕草になっていた。
しばらくしてようやく怒りが治まった繭美は、居住まいを正して医師に尋ねた。

「私の体‥‥元の体はどうなったんですか」
「我々の技術を使えば、復活は不可能ではありません。
ですが、文岸様のご指示であなたを女性にすることが決まってから‥‥その、処置を致しました」

 男が言いよどんだ。繭美はそれで大体のところを察した。

「そう‥‥もう、私の体は無いんだ」

 心の中の大事な場所に大きな穴が開いたような空虚感に陥りそうになった彼女の手に、晶の手が重ねられる。
繭美は晶の方を見て、うなずいた。そうだ。今は晶がいる。それで十分ではないか。
 医師の説明は続いた。
 繭美の体を構成しているのは、士狼の遺伝子だけではなく、
養父母となる楠樹家夫妻の了承を得て夫妻の遺伝子情報をも利用していた。
夫妻には特殊な遺伝子欠陥があり、通常の形では子供が作れなかったのだ。
つまり繭美は養父母の血を引いており、その意味では本当の両親と言っても差し支えない。
そしてこの体は、自分自身でもあり、士狼の血を引く娘とも言えるだろう。

「この話が終わったら、楠樹夫妻の所に連れて行くよ。とても優しく、素敵な方たちだ。君もきっと気に入ってくれるはずだ」
「お父さんとお母さん‥‥か」

 士狼は、彼が産まれた時に母を亡くしている。
父も彼が物心がつく前に士狼を親戚の家に預けたまま再婚してしまい、彼は厄介者として親戚中をたらい回しにされた。
だから士狼は、家庭の暖かさを知らない。
 医師は鞄の中から、小さな紙袋を取り出した。

「それから、今日からこれを飲んでください。一日に一回、夜寝る前に一錠を飲むこと。
水で含むものですが、珈琲でもジュースでもかまいません」
「これはなんの薬なんですか」
「生理を始めさせる薬です。
正確には今日の検査の結果を待たなければならないでしょうが、
卵巣の発育も十分なようですし、子宮の状態も良いようですので。
ただし、まだ妊娠は難しいでしょうね。ちゃんと妊娠できるようになるには、まだ数年はかかるはずです」
「に、妊娠!?」

 繭美がぼっと顔を火照らせ、頬を手でおおった。
 確かに月の障りに相当する周期で多少体調がすぐれない時期はあるものの、
生理らしき出血はないので不審に感じていたことはある。
家に定期的に訪れる医師も、いつも必要最小限のことしか口にせず、
質問をぶつけても答えが返ってきたためしがなかったのだ。

「生理が始まっても、この薬が無くなるまでは飲み続けてください。
最初は辛いかもしれませんが、薬が無くなり次第、もしご希望であれば低用量ピルを処方します。
もっとも、辛いのは最初だけで、恐らく生理はかなり軽いと思われますが」
「どうしてですか」
「そのように調整したからです」

 生真面目に答える男がおかしくて、繭美はくすりと笑った。

「はい、ちゃんと飲みますわ、先生。それから私、一向に背が大きくならないんですけど、どういうことなんですか?」
「ああ、それは妊娠できるようになるまで、加齢速度を極度に落しているからです。
もしお望みなら、通常の成長ができるように処置致しますよ」
「いいえ、それだったら今のままでけっこうです。お肌の曲がり角も恐いですから」

 そう言って微笑んだ。どうやら彼女は、しっかりと女性のパーソナリティを確立できたようである。
 夕刻には繭美の診断を済ませて医師も帰っていった。現在のところ異常は認められず、健康体であると太鼓判をもらった。
 夜も更け、やがて二人はしばらく振りに共に床に就いた。

「弓奈‥‥弓奈!」
「士狼!」

 いつもとは違い、男と女の立場を入れ替えるかのように、かつての名前を呼びあう二人。
いつもは受身の繭美、いや士狼が積極的に弓奈を攻めている。
つぼを心得た愛撫に、晶は男らしからぬ悲鳴を上げたほどだった。
 やがて疲れ果てて横になった晶を、繭美が膝枕をして髪を手で梳くように撫でている。

「繭。今日は随分激しかったね」
「今は高前士狼なんだ。だから積極的ってわけ」
「そうか‥‥」

 膝枕をしてもらいながら、晶は彼女の処遇について話を始めた。
晶の祖父には、繭美を妻として迎えることは了承を得ている。あとは彼女の意思だけだ。

「もちろん、断るわけないじゃないか」
「じゃあ、これは僕からのプレゼント。受け取ってくれるよね」

 晶は枕元から小函を取り出し、蓋を開けた。
灯りを落としたわずかな光の室内でもわかる、まばゆい輝き。
晶は指輪を取り出し、繭美の左手を取って薬指にはめた。
 つぅ、と繭美の瞳から涙がこぼれ出た。

「どうしたの? 何か哀しいことでもあるのかい?」
「ううん、なんでもない。もう、高前士狼はいなくなったの。それが少し寂しくて‥‥。
でもこれから私は、楠樹繭美。そしてあなたの婚約者」

 澄んだ表情をしていた。
 弓奈、いや晶もまた全てを吹っ切った笑顔を見せた。

「繭美。これからは僕が全力で君を守る」
「私も全身全霊をこめて、あなたを守る。そして愛します」

 二人は抱き合い、唇を求めあった。
 こうして一度は分かたれた恋人達は、数奇な運命の下で再び恋人として将来を誓ったのであった。


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