翌朝、日の出の鐘が朝を告げる。何となく後ろめたい部分を抱えて沙織は目を覚ました。香織は壁を向いて寝ている。
いつもは私のほうを向いて眠っているのに……
一度灯った疑念の炎は心の中の平穏な部分まで焼き払ってしまう。
出来る限り優しく手を伸ばしたつもりだったのだけど、沙織が香織の肩を揺らした時に香織は無意識のうちに肩を払った。
香織……香織……香織……どうして?
寝起きの沙織は既にパニック状態になっていた。
「どうして!」
金切り声に近い声で沙織は叫んでしまった。
香織はびっくりして目を覚ました。
「沙織、どうしたの?」
のっそりと起き上がった寝起きの香織が酷く不機嫌そうな表情に見えた沙織は、もう何がなんだか理解不能になってしまっていた。
どうして?
どうして?
どうして?
涙目になった沙織はありあわせの服を着て部屋を飛び出していった。
事情が良く飲み込めない香織は呆然とそれを見送るしかなかった。
香織がカプセルから出てきて16日目の朝は波乱含みのスタート。
昨日まで快晴だった空もどこかへ旅立ってしまったようだ。どんよりと低く曇った空は重そうな雲に覆われて今にも降ってきそうな状態だ。
こんな日は鐘の音もきつく響くらしい。沙織は一人サロンで外を眺めていた。
私の大切な香織。どこへ行ってしまったの……
雅美の管理しているファイルには、24号棟のTSレディ全員を観察した分析が書き込まれている。
TSレディの監督官資格を持つ雅美が見立てた沙織の精神安定性はB1クラスだった。
最高の3Aから順に2A、A、B1、B2と下がっていき、問題のある子にはCが、きわめて不安定な子はD、精神疾患を患っていると判断されるEから下は
廃棄の対象となる。
女性である以上は避けられない、生理前の情緒不安定に対する耐久性というのが、精神安定性を評価する基準となっている。
普段と変わらないレベルで精神の安定を保っていれば、B1以上の評価になる筈だ。
しかし、今現在の沙織を雅美が見立てたらDの、しかもマイナスレベルだろう。
人前でも大声で喚いたり泣いたり平気でしてしまうDクラスだが、沙織は勢い余って香織の首でも絞めてしまいそうだ。
他のTSレディに直接的脅威となりうる場合は、施設から出されて処分される可能性が高い。
『きわめて高価な存在』になった彼女達を守るためとはいえ、その運命は過酷過ぎる部分も多い。
香織は部屋を綺麗に片付けてクローゼットを整理し、キッチンを掃除してベットを綺麗にメイクしなおした。
いつもなら沙織と二人で仲良く笑いながら行う作業が今日は酷く孤独だった。
雅美の見立てた香織の情報分析力は3A++、IQ換算で軽く200を越える子がおよそ2Aレベルなのだから、3Aたるや探偵か刑事にでもすれば現場で役に
立つレベルだ。
しかも香織はその3Aにプラスが2つ付く。3Aクラス3人分と評価される彼女の分析力は自分以外のことになると素晴らしい能力を遺憾なく発揮する。
そう、自分以外と断りが入る最大の理由、それは香織が折り紙つきの天然系だということだ。自分が勘定に入った状況分析は5ランク落ちというのが定説らし
い。
事実、香織は沙織の不安定になっている要因を、生理前症候群(PMS)による気分の落ち込みと精神的不安定ではないかと判断した。
朝食をとるためにジャージへ着替えてサロンへと移動する途中で香織は考えた。
PMSであれば、ハーブティね……チェストツリーのお茶を淹れて持っていこうかしら……
ブツブツとつぶやきながらサロンへ行ったら沙織は呆然と外を眺めていた。
「沙織風邪引くよ。そんな格好で座っていたら良い女が台無しよ」
香織は柔らかく微笑んだ。
「香織、いいよ私は……良い女でなくて」
沙織はうつむいて震えている。
香織は持ってきたカーディガンを沙織の肩に掛けて立ち上がるように促した。沙織はよろけながらも立ち上がる。香織の差し出した手を打ち払って一人歩きだ
した。
その仕草を見ながら香織は内心ちょっとムッとしている。でも、彼女はPMSなんだと思って食堂に入、り二人分の朝食を用意して沙織へと持っていった。
今朝のメニューはホワイトアスパラの乗ったグリーンサラダにゆで卵、トーストとボイルウィンナー。
ビタミンの不足は女性にとって良い事では無いので、100%トマトジュースかカボスジュースが添えられている。
香織はキッチンのおばちゃんにお願いしてチェストツリーのハーブティを貰ってきた。沙織のトレーにそれを乗せて運んでいく。
いつもと違う席で沙織は膝を抱えてうずくまっていた。小刻みに揺れる肩が寒々しいほどだ。香織は精一杯の笑顔で沙織にトレーを差し出す。
沙織は香織の顔を見ないでトレーを受け取った。
憔悴しきった表情の沙織を見て香織はただ事ではないと思い始めていた。
まさか自分の立ち振る舞いが沙織を苦しめているなどと、露にも思わぬ香織の分析はあらぬ方向へ動き出す。
チェストツリーの独特な匂いが食堂に流れていく。PMSでおかしくなり始めていた何人かのTSレディが同じお茶を飲み始めた。
精神安定効果の強い成分で、幾分か沙織は冷静さを取り戻している。香織は自らの分析が当たったのだと内心ほくそえんだ。
少しずつ赤みの戻ってきた表情を浮かべる沙織はやはり外を見ていた。香織はその横顔を見ている。
沙織の目が何かを追っていると気付いて外を見たら、遠くに見た事の無い電車が走っていた。
段々とその列車が近づいてきて森の中のトンネルに消えていく。二人は食事の手を止めてそれを見ている。
アレが何か沙織は知ってるだろうか?
香織は沙織のほうに視線を向ける。沙織の目には涙が溜まっていた。
なんだろう? でも、今は聞かないほうが良い。沙織は不安定だから。
初潮の来ていない香織は知識の上だけで沙織を気遣っている。沙織は知っている。
あの列車が何であるか。それが何を意味するのか。近いうちに起こる出来事も……
食事を終えた頃、施設の中に放送が響く。
「ピンポ〜ン──こちらは管理課です。これより放送する指示に従ってください」
「21号棟の先住者は4号棟検査室へ、21号棟新人は5号棟検査室へ移動してください」
「22号棟、23号棟は各部屋、およびサロンで待機してください」
「24号棟の先住者は11号棟第2検査室へ、24号棟新人は17号棟精密検査室へ移動してください」
「25号棟の──」
24号棟3階8号室の先住者は沙織、新人は香織。今日は二人分かれて検査になった。
今日は何の検査だろう?
前回は病原菌抗体検査、その前は術後検査だった。
今日は?
何となく不安になって沙織に聞こうとしたら、沙織はスッと立ち上がって歩いて行ってしまった。
香織はこれ以上なく不安になりながらトレーを片付けて指示通り17号棟へと歩いていく。
魔の17号棟と噂されるここは何の設備があるのか、新人には絶対知らされない暗黙の了解があるらしい。
一番最初に施設内を教えてくれた時も、風呂上りに施設内を歩いて涼んだときも、沙織はここだけは教えてくれなかった。
「その時が来たら嫌でも分かるよ……フフフ、内緒!」と言って結局教えてくれなかった。
香織の足取りは重かった。不安に押しつぶされそうになりながら気丈に歩いたつもりだった。
しかし、渡り廊下を越えて見上げた17号棟は見るものを不安にさせるだけの威容を誇っている。
ガラス張りや白系のペイントが施された施設の建物群にあって、唯一黒系の仕上げとなっている17号棟は遠めに見たら黒い墓標にも見える。
事実、この中で適応するべくトレーニングしているTSレディが、ここに入ってから出てこなくなったという話は沢山聞いている。
新人を脅かす為の見え透いた嘘だったと信じたいが、いざ自分の番となるとやはり怖いのだろう。
社会に出て最初の一人目を指定する時の恐怖に負けないように、精神安定性を確かめる意味もあるのだと香織は考えた。
17号棟入り口の受付で24-38の川口です、とチェックインを行う。大きな扉が少しだけ開いて中に入った。
建物の中も黒を貴重とした冷たいイメージのデザインになっていて、受付奥の小部屋には更衣室が設置されていた。
「香織さ〜ん、川口香織さ〜ん。入ってくださ〜い」
受付から案内をするべく付いてきた女性に呼ばれて中に入ってみると、そこには担当の宮里が白衣姿で立っていた。
約2週間ぶりの再会だったが、懐かしむ間も無く隣の女性に薄緑色の大きなポンチョを渡された。
「今着ている物を全部脱いでこれを着てください」
きわめて事務的な口調で指示されて香織は着替えた。周囲には宮里とその助手が2名、案内の女性が一名、2人の女性に監視されている状態で裸にされポン
チョを頭から被った。
この服には首を通す穴以外の穴が一つも付いていない。自分が何をされるのか不安で香織は今にも泣き出しそうだ。
宮里はにっこり笑って言う。
「緊張する必要は無いですから安心して、今からあなたの体が外界に出られるか検査するだけです」
そういって案内の女性を促して検査室に香織を運び込んだ。
検査室の中を見た香織は凍りついた。女性診察台がそこに鎮座していたのだった。
宮里は笑顔で指差した。その笑顔に優しさはカケラも感じられない。余計な手間を取らせるなとでも言いたげな雰囲気。意を決して香織は診察台へ上がった。
案内の女性が香織の手足を診察台に拘束し腰にベルトを掛けた。この時点でやっと香織は理解した。自分の置かれている立場が何であるかを痛いほどに理解し
た。
私はただの道具なんだ……子供を生んで人口を増やすための道具なんだ……
政府の関係者にしてみれば、私は人形と一緒……
一筋の涙が香織のほほを伝って落ちる。これ以上無いくらい惨めな気分になって、されるがままに任せざるを得ない自分に絶望した。
「準備良し!」と案内の女性が言う。宮里は隣に立っていた助手に何かを指示する。
助手は隣の部屋からキャスター付きテーブルを押してきた。手術道具のような物が沢山並んでいる。
なにをされるんだろう?
香織の不安がピークに達した頃、白衣を着た別の女性がタオルで手を拭きながら部屋に入ってきた。
「はい、香織さんね。いい名前ね、香織。うん、素敵な名前だよね。さぁちゃっちゃと済ませて次に行こうね!」
そういってその女性は私の前に座りボタンを押す。診察台は高くなったり向きを変えたりしながら女の子にしかない穴を……膣口を女性に向けて止まった。
女性が指に液体を掛けている。糸を引くような粘性の高い液体。そしてそのまま香織の膣内に指を突っ込んだ。
香織の背中がビクンと反応する。どんなに頑張っても口を閉じる事が出来ず、中を弄り回されると甘い吐息を漏らした。
白衣の女性は産婦人科医のネームプレートをつけていた。
もしかして、ここで体外受精でもされるのか……香織は膣内を弄繰り回される快感の波にもてあそばれながらも恐怖を感じていた……
膣内鏡が香織の中に突っ込まれ無造作にグイっと広げられる。いまだペニスを挿入された経験のない香織にとって、その感触は最悪な違和感だった。
快感を通り越して疼痛を感じるほどにクスコで弄り回される香織。女医は何かを確認すると満足そうにクスコを引き抜いた。
ハァハァと荒い吐息でされるがままを耐えていた香織が我に帰ると、拘束具はすべて取り外されていた。
「香織さん、お待ちどうさま。もういいですよ」
そういって女医はファイルに何かを書き込んでサインした。
診察台からやっとの思いで降りた香織を女医は支えて抱きしめた。周りの女性達も笑顔でそれを見ている。香織は意味が分からなかった。
「香織さん、落ち着いて聞いてね。もうすぐ生理が来ますよ。あなたも立派に女の仲間入りです!」
周囲の女性達からおめでとう!と祝福され拍手された。香織はやっと建物の中身を教えてくれなかった理由が分かった。
こうやって周囲から拍手されて歓迎されれば誰だって嬉しい。それを最大限味わうためにみんな内緒にするんだろう。
香織はやっとの思いで微笑むと目を閉じて沙織を思った。
沙織、私も女になるみたい。
その時沙織は別の検査棟で生理経過検査中だった。
「きわめて安定しています。あなたは完全に女性になりました」
「もう大丈夫です」社会に出て義務を果たしてください」
「あなたの双肩に日本の未来が掛かっています。丈夫な子供を生んでくださいね」
香織、お別れの時が来たみたいよ……
でも良いよね。 香織は私を嫌いになったんでしょ……
それ以外の検査を終えて香織が部屋に戻った時、沙織はすでにベットに横になっていた。たった一人で寂しそうに壁側を向いて。
無理もない、卵巣検査、子宮口検査、受胎能力検査、子宮内膜検査、そしてホルモンバランス測定などを繰り返した結果、香織が17号棟を出たのは既に日没後
だった。
香織はそっと沙織を起こさないように腰を下ろす。沙織はそれだけで目を覚ます。
後ろを振り返らないでいたが何をしているのか全部分かっている。
着替えている事も、衣服を綺麗にたたんでいる事も、そして乱雑に椅子へと脱ぎ散らかした沙織の服も一緒にたたんでいる事も。
香織がたたむのを終えて顔を上げたら沙織はベットの上に座っていた。ドキッとする二人。重い空気が流れる。沙織の表情が泣きそうなのに香織は気が付い
た。
「どうしたの?」
香織は尋ねる。沙織はついに泣き出した。両手で顔を押さえて嗚咽している。
香織は沙織に寄り添って座り肩から毛布を被った、沙織は泣きながら言う。
「香織は私の事嫌いでしょ。嫌いなんでしょ……」
香織は言葉が出てこなかった。呆然となって彫像のように固まってしまった。沙織はつぶやく。
「やっぱり嫌いなのね そうよね 私は嫌われものだからね うるさいからね…」
沙織は涙でグズグズになった顔を上げた。そこには沙織以上に涙でグズグズになった香織が居た。
「なんで?」
それだけやっとつぶやいてただ涙を流していた。
そんな事無いから……絶対無いから……本当に無いから……嘘じゃないから……お願いだから信じて……
二人して同じような事を言いながら泣いていた。窓の外はいつの間にか本降りの雨になっていた。