遠くで鐘の音が聞こえる。水に浮いているような漂流感の中から香織の意識は浮かび上がってきた。
昨日の夜、泣きながら会話した事を少しずつ反芻する。最後の言葉は「合わせる顔がないよ……」だった。
香織の意識がはっきりとしてくる。眠る前、最後に見た光景のままの視界。
二人とも壁を向いて沙織を後から抱きしめたまま、沙織は香織の腕に手を添えたまま。
二人とも一糸まとわぬ生まれたままの姿で、裸の会話をしていた。
「沙織、ごめんね……」
香織はそっと呟く。意識の戻った香織の腕が沙織をギュッと抱きしめる。
沙織の意識は香織の言葉で現世へと帰ってきた。
「香織……ごめんね」
香織は更にギュッと力を入れて沙織を抱きしめる、
「沙織……大好きだよ」と、心からの言葉を添えて。
だが、その時香織は気付いた。毛布の中から漂ってくる有らぬはずの臭い。
抱きしめられた沙織はウゥッと唸って小刻みに震えている。香織はまだ理由が分からない。沙織は何かに耐えている。
「沙織……どうしたの?」
香織の言葉に緊張感が混る。
どうしたんだろう……私また沙織に……大好きな沙織に……
香織の頭に罪悪感が浮かんだ。
「香織……ゴメン……やっちゃったみたい」
沙織は恥ずかしそうに呟く。
「どうしたの沙織!」
香織にはまだ理由が分からない。
……天然系もここまで行くと漫才だな。
一部始終をモニターで見ている雅美は意地悪そうに笑っている。
「香織ゴメン、そーっと毛布を剥いでくれる。あとティッシュ持ってきて」
香織は言われるがままにティッシュボックスを引き寄せ毛布を少しずつ剥いでいった。香織の鼻にムッとするような臭いが届く。
生臭い臭い。そして、サビ鉄の臭い──血の臭いだ。
香織はまだ分からない。無意識に沙織の足でもへし折ったのか?とビクビクしている。
おっかなびっくり毛布を全部剥いだ時、全裸の沙織が横を向いて寝たまま股間から血を流していた。生々しい赤い物がヌルリと垂れている。
香織はやっと理解した。
「沙織……生理なのね」
香織の体から一気に力が抜けへたり込む。そしてティッシュを数枚抜くと、沙織の股間へ手を伸ばした。
後ろ側に垂れている部分を香織は拭きながら生臭い血の臭いを吸い込んで気分が悪くなりかけた。
でも、大好きな沙織だから……
丁寧にふき取った後で新しいティッシュを数枚抜き取り、今度は前側へと腰を越えて手を伸ばす。沙織は恥ずかしそうにしながらもされるままだった。
「香織……ごめんね……」
「うん、気にしないで。すぐ綺麗になるから」
そう言って香織は沙織の足に手を掛けた。
右足を浮かせて外陰唇を新しいティッシュで撫でる。いつも戯れている沙織のデリケートな部分が、いつもと違って腫れぼったいような感じだ。沙織の左手が
シーツを握りしめる。
大好きな香織が私の世話をしている、よりにもよって生理の世話を……
そして……気持ち良い。自らの意志とは関係なく垂れてくる経血に混じって秘蜜が滲みだす。
香織はそれに気が付きつつも丁寧にふき取った後小声で訊ねる。
「沙織、生理用品はどこ」
「クローゼットの下の引き出しに入ってる。ごめんね」
「ちょっと待って」
香織がベットの上で体の向きを変え立ち上がりかけたその刹那、香織の下腹部はギリっと痛んだ。
まるでお腹の中を直接握られるような痛み。立ち上がった香織は下腹部を押さえ唸る。
「あぁ……」
香織の異変に気が付いた沙織は慌てて振り返る。
「香織どうしたの!」
香織の股に一筋の赤い物が垂れ始める。
「あらら、香織もなのね」
沙織はそーっと立ち上がってティッシュを取りだし香織の股に手を入れた。香織は火が出るほど恥ずかしそうだ。
「沙織……ごめん」
沙織は柔らかく香織に微笑んだ後、そっと新しいティッシュを当てて垂れるのを抑えつつ、生理ナプキンを二人分取り出して一つを香織に渡し、隣に並んでレ
クチャーを始める。
「ここが左右の横漏れ防止なの。ちゃんと広げないとショーツからはみ出して床上に赤いシミが出来ちゃうよ。こうやって広げてここが真ん中になるよう
に……」
香織は股を抑えながらそれを見ている。沙織は自らに生理ナプキンを当てて生理ショーツを履いた。股間の出っ張りが生理中ですと自己アピールする看板のよ
うだ。
沙織は場所を確かめて"安全"を確認すると香織の前に膝立ちになった。ティッシュボックスを小脇に抱えた沙織はニコッと笑って言う。
「はい、香織の番ね」
香織は両手で口を押さえてされるがままになっている。内股に垂れた赤い筋をぬぐい、外陰唇と小陰唇を綺麗にふき取って処置終わり。
沙織に促されて香織は生理ナプキンを自分に当てる。下腹部の疼痛は続いている。生理ショーツを引き上げた時、再び香織のデリケートな部分にヌルっとした
物を感じた。
昨日までの不安さや焦燥感が消えているのに香織は気付いた。ホルモンバランスの変化がもたらす女性的な心の揺れ。
ブラを当てて服を着る仕草を見ながら沙織も気が付いた。
香織も女の子の仕草になってるね……
沙織の精神は安定を保っているが、こみ上げてくる切なさだけは埋めようがなかった。昨日見た列車を思い出してうつむく。
私の次はどんな子が来るんだろう……香織は仲良くやれるかな……
「沙織どうしたの? ご飯食べ行こうよ」
香織はニコッと元気良く笑って言った。その笑顔が沙織をより切なくさせる。息苦しい程に切ないなんて……
どうしようもない喪失感を感じる沙織の表情に香織は大きな変化の可能性を感じ取った。
食堂へ向かう廊下の途中、生理中の女性は歩き方が変わるらしい……香織は沙織の歩く姿を見てそう思った。自分も同じ様な動きになっているのには気が付か
ないのだが。
食堂へと入ると香りは驚いた。各自のトレーにはお茶碗に盛られたお赤飯に蛤のお吸い物、小鯛の尾頭付きと御祝い三点セットが並んでいる。沙織は笑って
言った。
「私は2回目だけどね!」
香織がなにより驚いたのはこれだけの量を朝から用意した手際の良さだ。
事前に分かっていた、としか考えようがない。昨日の検査で生理が来ると言われて……
あぁ、そうか……私達はただの道具なんだっけ……
香織は自分の身に降りかかっている境遇を改めて確認する。もう逃げようがない、絶望的な現実。
しかし、何となくワクワクしている自分を同時に感じ取っている。早く外へ出て、早く格好良い交配相手を作って……そして早く義務を負えて……
ネガティブよりポジティブな思考は、この2週間の間に彼女たち"道具"に植え付けられた基礎思考パターンになっている。
普通に考えて学校に子供を作りに行くなんて考える方がそもそもおかしい。
そんな矛盾や疑念を抱かない用に"教育"されてきた香織は、無邪気に今朝のメニューを喜んでいた……すぐ隣で深刻な表情を浮かべている沙織に気付くこと
なく。
昨日と同じ外のよく見える席に着いた二人は箸を手にとって食事を始める。
「いただきま〜す」
挨拶を徹底的に仕込まれる彼女たちの動きは画一的だ。蛤のお吸い物を啜りながら、香織は昨日と同じ列車がやってきたことに気が付いた。
沙織はその香織の動きで気が付いて窓の外を見る。やや弱くなったとはいえ雨の降り続く施設に向かって列車はやってきた。
「沙織、あの電車は……なに?」
香織はお茶碗を持ったまま箸で列車を指さした。
「香織、それ行儀悪いよ〜」
沙織はたしなめるように言うとお茶碗を置いて香織をジッと見つめる。香織はその様子にちょっと驚いた。
「あれは新人さんをここへ運んでくる電車だって。香織もあの中に乗っていたはずよ」
「でも、目を覚ましたときは部屋の中だったよ。それにカプセルに浮いていたもん」
二人はトンネルに吸い込まれていく列車を黙って見つめていた。
「あの列車はこの施設へ新しいTS法被験者を運んでくるのよ。ここではなく別の施設で性転換処理が行われて、ほぼ完了の状態になってから運ばれるの」
二人が振り返るとそこには雅美が立っていた。雅美のトレーは普通のメニューだ。
「香織さん、初潮おめでとう。あなたは女性になったのよ」
そう言って雅美は微笑んだ。トレーの上には香り立つコーヒーが置いてある。
「雅美姉さま…コーヒー好きなんですね」
香織は何の疑問を挟まずそう言った。沙織は沈んだ表情で言う。
「私達の夕食に出るのも時間の問題ね」
香織は不思議そうに沙織を見る。沙織は黙って食事再開した。
雅美は笑いながら香織に言った。
「もうすぐ意味が判りますよ……順番なの」
そう言って二人から離れていった。
……順番なの
香織の頭名の中で雅美の言葉が何回もリフレインしていた。
食後、22号棟23号棟の女の子達が検査室に送り込まれていった。24号棟の沙織と香織は部屋待機となって一日自由となった。
生理でなければ、プールで泳ぐとか体育館で卓球に興じるとかそんな暇つぶしもできるのだけど、今日は二人とも動きたくない一日だ。
二人して図書室の中に立て篭もる事にした。施設の図書館は純愛小説の宝庫、夢に夢見る乙女達の心をくすぐるお話のオンパレード。
全てが有る一点の目標に向かって整備されている施設内では、ある意味で予想範囲のうちなのだろう。
香織がタイトルに惹かれて手に取った小説には2065年度乱歩賞受賞の文字がある。TS法で性転換対象となった女性の数奇な生涯と第2の人生の活躍が描
かれている。
もちろん、TSレディにとっての"第2の人生"とは、義務を果たした後の事なのだが…
沙織の選んだ本はTS法の無い2100年を書いた架空歴史小説。共にTS法の存在意義とその重要性、そしてTS法被験者達が自らを誇りに思うようにする
巧妙な心理操作なのだろう。
分析力の鋭い香織もそれには気が付いていないようだ。しかし、もし気が付いていたとしても自らの境遇を悲観する事はないだろう。
彼女は自分が社会に必要とされているのだと、別の意味で理解していたからだ。
シトシトと降り続く雨が霧になって施設を包み込む、昼食時間も忘れて読書に没頭する二人。連作物の小説は読み始めると終わりまで止まれない罠。
慢性活字中毒と呼ばれ、小説禁断症状に苦しむとされる人達がこの世にいることを二人は知る由もない。ただ……
「ねぇ沙織、ご飯どうする?」
「うん、でも今良いところだから」
「実は私も良いところだったの」
そう言って再び読書に没頭する二人は、立派な活字中毒患者になってしまったようだ。
そのまま憂鬱な雨の午後も図書室の虫になっていた二人だが、ある時から香織はそわそわし始めていた。
「ねぇ、香織……あのね……」
「どうしたの?」
「あのね……痒いの」
「どこが?」
「ほら……あの……」
沙織はニコッと笑って言った。
「実は私もさっきからちょっと痒かったの」
そう言って立ち上がると香織とトイレに向かった。トイレの入り口に小さな無地の白箱が置いてある。沙織はその箱を無造作に開けると新しいナプキンを2つ
取り出した。
「生理の間だけ全部のトイレにこの箱が置いてあるよ」
そう言ってトイレの個室に収まる。壁越しに沙織は話しかける。
「ちゃんとウォッシュレットで洗った方が良いよ。ビデって方のボタンを押してね」
香織は生理ナプキンを外すと畳んでトイレ脇の小箱に捨てた。ムッとする血の臭いが辺りに漂う。香織はそれが恥ずかしくて臭い消しのスプレーを盛大に撒い
た。
お湯を吹き出すウォシュレットのモーター音が響いた。股間をきれいに洗ってティッシュで拭き取ると、香織は新しいナプキンを当ててショーツを上げる。
その一連の動きに些かの逡巡もなかった。今や香織は身も心も女になっていた。
男だった記憶はどこへ行ったのだろうか?
環境が人を変える。心を変える。この施設の中で川口香織という新しい人格が形成されていった。
本人は全く意識することの無いままに……