午後の日差しがふんだんに降り注ぐ島のグラウンドに一陣の風が吹き抜けていく。
 強い風はピッチの芝を揺らし目に見える波がグラウンドに風の刃先を作り出していた。
 目にも鮮やかな青いカーペットの上を大きな人の波が行ったり来たりしている。

 緑と黒のユニフォームで揃えられたラグビー部の男子学生が、白とグレーのユニフォームを着込んだ対戦相手を蹴散らして津波のように襲いかかっていた。
既に10トライをあげて終始押し気味に試合を進めるラグビーの面々が、風のように雄牛の様にグラウンドを所狭しと走っていた。

 これでは対戦相手がたまらないだろうなぁ……

 観客席に陣取る生徒達の歓声がグラウンドを支配し、大きな声援は足の重くなる時間帯ですら独走するフルバックのその背中を押している。
そして、その観客席にタワーの11人がそろっている。真田の為の席が一つ空いているが座るはずも無い事なのだ。団結と友情とでもいった雰囲気だろうか。
 日差しを避けるべく日陰を探す女子生徒を横目に、タワー組の女子生徒は涼しい顔をして日向へ座っている。
彼女達の口の中にはカフェインがたっぷり入ったキャンディーが押し込まれている。そしてよく冷えたアイスコーヒーを飲みながら試合を観戦中だ。
 暑くて汗を流している彼女達だが理性の糸を飛ばすような事はない。ただ、先ほどから何となく内股を摺らせてモジモジしているだけなのだが……

「沙織、どうしたの?」
「香織は平気なの?」
「なにが?」
「いや、ほら……」
「え? なに?」

 沙織と香織のヒソヒソ話に真美と恵美が割り込む。

「私も実は先から大変……」
「うん、私も……」
「みんな酷いんか? なんやぁ、ウチだけやなかったか」
「やっぱちょっと酷いね。メーカー変えてもらう?」

 光子ものぞみも同じらしい。
 その話の輪から一人だけ香織は置いていかれている。
 話の内容がパッと思い浮かばないのは香織の意識の問題なのかもしれない。

「あ〜、もう我慢できない! ちょっとトイレ行って来る」
「ウチも行くやさかい……」
「……同じく」

 そういって香織以外が立ち上がってトイレに行ってしまった。
 どうしたんだろう?
 男衆もいぶかしがっている。しかし、その理由を香織はまだ気が付かない。いや、正確には気が付く訳がなかったのかもしれない。
 何故ならば……香織だけが同じ症状を発する理由が無かったのである。

 しばらくしてトイレから戻ってきた沙織に香織は単刀直入に聞くしかなかった。

「ねぇ、みんなどうしたの?」
「香織は平気なの?」
「だからなにが?」
「いや……だから」
「うん」
「痒くないの?」
「どこが?」
「……」

 顔を見回す沙織。何かに気が付いたように恵美が口を開いた。

「私達は皆同じタイミングの筈よね」
「え?」
「で、ここにあるのは同じメーカー製」
「だから、なにが?」
「香織……もしかして」
「え? え? え?」

 真美も気が付いたようだ。間髪入れず沙織も気が付いた。

「香織! もしかして! 第1号かも!やったねぇ!!」
「まだ気が付かないの? 香織は最初からそうだったけど」

 男衆は話が見えない様だったけど、やはりこういう時、最初に気付くのは英才だった。

「そうか、タンポポ第1号は武田だったか」

 この一言で英才以外の男子生徒も気が付いたようだ。勝人はやおら立ち上がると香織の手を取って引っ張りあげた。

「武田勝人! これより相方と医務室へ行って参ります!」
「勝人もどうしたの?」

 ニコッと笑った光子が香織の目を見て意地悪そうに言う。

「か〜お〜り〜。生理来た?」
「……あ゛!」

 吉報を待ってるよ!と皆に囃されて香織は勝人と医務室へ歩き出した。
 既にアパート組では何人かがセーラー服からマタニティー仕様のゆったりしたドレススタイルに変わっているものの、タワー組は皆深い群青色のセーラー服の ままだった。
 タワー組はどうなるのか? それが一番興味をそそる内容なのかもしれない。観客席を降りてタワーの医務室へとゆっくり歩いていく。
 まだ実感は沸かないものの、何となく自分の胎内に新しい命が芽生えるイメージだけはあった。

「ねぇ勝人……私、本当に女になったのかな?」
「どうしたいきなり」
「いや、だから……赤ちゃん出来たかもしれないでしょ」
「あぁ、俺の子だよな」
「うん、だって勝人しか私を抱いてないから」
「じゃぁ100%俺の子だな」
「でも……」
「でも、どうした?」
「私は……男なのよ」
「だった……じゃないのか?」
「……そうだけど」

 気が付くと香織は顔面蒼白だった。

「私ね、前に聞いたの。出産って命がけなんだって」
「そうらしいな」
「しかもね、凄く痛いんだって」
「俺には良く分からないけど」
「私も良く分からない」
「……」
「私……私で平気なのかな? 我慢できるかな? 男にでも出来るかな……」
「大丈夫だ。大丈夫だって! 俺が付いてるさ!!」
「でも、生むのは私よ。生まれ付いて女だった訳ではない私なの」

 立ち止まって話をする二人。香織は俯き震えている。
 勝人は香織の肩を抱いて頭に頬擦りしながら語りかけるしかなかった。

「かおり……こればかりは俺にはどうしようもない事だ」
「うん」
「でも、避けて通れない道なら頑張って欲しい」
「そんな無責任な……」
「そうかもしれない、だから俺は頑張ってお前とワールドカップへ行く」
「え?」
「関係ない話かもしれないけど……」
「けど?」
「おれはワールドカップの舞台でお前と子供の名を叫ぶよ」
「まさと……」

 勝人は肩を抱いたまま歩き出した。香織は促されるように歩き始める。

「俺を生んでくれた母さんも、香織の母さんも……」
「うん」
「世界中の全部の母さんは皆同じ気持ちだったと思うんだよ」
「……」
「最初はみんな不安だったと思うんだ」
「……そうね」
「こんなとき、男は何も出来ないんだ」
「私も男だったよ」
「でも今は女だろ」
「……そうだけど」
「世界にまた一人、新しい母親が生まれるんだよ」
「……まさと」
「香織、ありがとう。本当にありがとう」
「……」
「さぁ、医務室行こうぜ」

 上手く表現できない感情を抱えて香織はタワーに吸い込まれて行った。これから未知の戦いを強いられる恐怖に香織の緊張はピークに達している。
強い孤独感に苛まれつつもタワー6階の医務室に入ると宮里が待っていた。ちょっとした病院並みの設備を持った場所になっているここで宮里は待機していたの だった。

「今回は誰かしら来るかなと思っていたけど……香織が1号なのね!」
「宮里先生……」
「私も鼻が高いわね!さ ぁ、診てもらいましょう!」
「宮里先生は出産した事ありますか?」
「私は無いわね……妊娠不能だし」
「え?」
「まぁ、それは今度話をするわね。さぁ、とにかく入った入った!」
「はい」
「あ、武田君はここで留守番よ」
「まじっすか?」
「ここから先は女の園なんで男子禁制なの!」

 そういって宮里はドアを閉めてしまった。医務室の入り口で所在無げにソワソワしながら診察結果を待っている勝人。こんなとき、男は本当に無力だ。
 手持ち無沙汰な勝人はアレコレ思慮を巡らせる。
 それは自分の子種が香織の中の何かと結びついて出来上がる奇跡の存在、生命の神秘とでもいうような物、コウノトリが運んでくると聞かされた新しい命、自 らに掛かる責任とでも言うのだろうか。

 小一時間程待たされて勝人は香織と再会した。医務室の面談ルームで宮里を交えて三者会談になる。香織は顔面蒼白のまま笑顔だった。

「武田君、ほぼ間違いないみたい」
「そうですか……」
「まさと……たぶん……私でも大丈夫だと思う」
「思うって……」
「あと2週間たったら再検査ね。そしたらちゃんと分かるから」
「……そうですか」
「まさと……ごめんね、ごめんね……」

 そういって香織は泣き始めてしまった。宮里は香織の肩を抱き寄せ頭を撫で始めた。

「武田君、良く聞いてね」
「……はい」
「香織が無事に出産しても、子供と一緒に過ごせるのは3ヶ月足らずだからね」
「……そうなんですか!」
「そうなの。こればかりはどうしようもないのよ」
「……何となりませんか?」
「なりません」
「そうですか……」

 カルテと資料を見ながら宮里は続けた。

「もし手元においてあったとしても、子育てしながら学校生活できる?」
「それは……」
「それに、TS法の関係で乳幼児からの完全生育システムは万全よ」
「そうですけど」
「そして、最近はちゃんと定期的に子供に合える仕組みになっているから」
「そうなんですけどねぇ」

 勝人は何かを考えている。思いつめたような表情で何かを考えている。
 ふと、何かを思いついたように顔を上げた勝人はとんでもない事を切り出した。

 今まで宮里が担当してきた子供達とは一線を画す大人びた考え方なのかもしれない。早い頃から全日本代表として大人の世界に揉まれて来た勝人ならではかも しれない。
 プロ契約して学校から独立して香織を引き受けて夫婦として暮らしたい。子供も育てたい。
 ここに居れば人材育成の観点から自分には理想的な環境だけど、子供と母親を引き受けて男の責任を果たすなら世の荒波に揉まれても良い。
 勝人は父親の覚悟を極めたようだ。その姿が香織には眩しかった。宮里も今まで経験の無いパターンだけに驚いたり感動したり忙しいようだ。

 しかし、法の下の秩序を重んじる法治国家で、それが認められる可能性は非常に少ないと説明するしか宮里には方法がなかった。
 上に聞いてみる……とは言えない部分も色々あるのかもしれない。

 結局、勝人の願いはどうにもならないという事で納得するしかなかった。香織も同意するしかなかった。
 世の女性達が聞いたら本気で怒るどころか、ショックで流産もありえる内容だ。お腹を痛めて産んだ子を問答無用で取り上げられてしまう世界に絶望しかねな い。
 宮里の危惧はかつてそのような事がいくつもあった事の裏返しなのだろう。
 悲痛な表情で話をし続けるしかない宮里の身を思えば、香織も無理を言えないな……と思い始めていたのだった。

「物事にはハレもケもあるのよ。やがて望む形に出来るから、今は我慢して」

 そんな言葉しか言えない自分を宮里は呪うしかなかった。
 悲痛な慟哭を抱いて香織は自室に戻った。力なくソファーに座り込んだ香織を勝人がお姫様抱っこで抱えてベットに寝かせる。香織は本気で泣きだす5秒前状 態だ。
 勝人はおもむろに香織のセーラー服をめくって香織のお腹に耳を付けた。香織の呼吸の音と心拍音が聞こえる。胃腸の活動する音、骨の軋む音。そして、香織 の心の音……

「香織……上手く調整して、ついでに頑張って二人生んでくれないか?」
「え?」
「そして三人目がお前のここにいる状態で卒業しよう」
「……ちょっと大変ね」
「卒業したら俺はプロ契約する。結婚を条件に契約するんだ」
「そんな事出来るの?」
「あぁ、出来るさ。それが嫌なら契約しないって言い切るよ」
「それが出来ない場合は」
「そんな事は考えない! それまでにそれだけの男になるさ!」
「出来るの?」
「あぁ、香織と子供の為に頑張る。俺もまだ子供だけど」

 ポロポロと涙を流し始めた香織を抱き寄せ、勝人もベットに横になった。二人で並んで寝転がっている。

「川の字で寝るって言うけど、こういう事なんだろうな。初めてわかった」
「うん」
「香織、頑張ってくれ。俺も頑張る。プロ契約して取られた子供を取り返して──」
「……うん」
「そして4人生んでくれよ。税金ただって話だ。おれがガッツリ稼いで見せるから!」
「まさと……」

 寝転がったまま手をつないで天井を見上げる二人。目を閉じて心を通わせる。

「俺達の人生プラン出来たな!」
「そうだね」
「香織が4人目を産む頃、おれはヨーロッパのどこかのリーグで得点王になる」
「そして……バンドロールを取ってね」 
「あぁ! まかしとけ! そして、地中海を見下ろす高台に自宅を構えて……」
「凄い話ね」
「ほら、昔アルゼンチンにメッシって居たじゃん、2代目マラドーナといわれた」
「今は孫がヨーロッパでプレイ中ね」
「そうそう、で、あの人みたいに有名人になるよ」
「うん」

 二人の夢物語は広く大きな物だ。子供の夢を語り合ってる様な雰囲気とでもいうのだろうか。しかし、この時の香織はその輝くような未来がどうしてもイメー ジできなかった。
きっと誰でも同じだろうと香織は思うしかなかったのだが……

 しばらくひっくり返っていた二人だったが、いつの間にか夕食時となってしまい食堂へ降りて行く。香織の表情はまだ沈んだままだ。
 食堂へ入ると既にメンバー全員が揃っていて、今日の試合に快勝した真田もシャワーを浴びてさっぱりした表情で、光子と向かい合って座
っている。
 勝人は言葉を選ぶ事もなく、単刀直入に皆に恐らく間違いないと報告した。

 食堂に沸き起こる拍手、そして祝福の声。食堂から来ていたおばちゃん達も祝福してくれる。チラッと真田を見た香織だったが複雑な表情を浮かべている素振 は見えなかった。

「ありがとう……みんなありがとう」

 そう言って涙を流す香織。出産まで約10ヶ月のドラマが始まった事を感じ始めていた。
 用意された晩ごはんにありつきながら、香織は出産経験があるおばちゃんたちにアレコレとレクチャーを受ける。それを他の5人も聞いている。
やはりこういうものは場数なのだろう。最年長でトータル7人生んだと言うおばちゃん曰く、気合と度胸と愛情だそうである。

 食事の内容や基礎体温記録の重要性を懇々と説かれ香織はじっくりと聞いている。
食事中にマタニティ管理セクションの担当者が食堂へ来たものの、知識でしか話をしていないとおばちゃんに見抜かれ、「あんたは黙ってなさい」の一言で片付 けられてしまった。

「いいかい? 1〜2ヶ月位は赤ちゃんも自力で大きくなるけどね」
「へその緒が繋がったら、あなたが食べたものは赤ちゃんも食べてるんだからね」
「好き嫌いなんかダメよ。体を作るのに必要なものをバランスよく食べて」
「あとはしっかり寝る事ね。最初は大変だけど……」
「気楽に行きなさい。一人生んだら楽になるから」

 ケラケラ笑うおばちゃん達は最後にこう付け加える。

「こればかりは男は役に立たないんだから、蹴っ飛ばすくらいで良いのよ」

 なかなか思い出せない自分の母親ではなく、ここに居るみんなが私を気遣ってくれる母親のような存在だと香織は感じた。
それは紛れもなく厳然と存在する、絶望にまみれた自らの運命を呪う香織だけではない感情なのだろう。
TS法で人生の舵を大きく切った元男の女性達は、同じ境遇の彼女達を温かく見守ってくれる存在だ。

 いうなれば戦友とも同志とも言うべき存在。もっとベタな表現なら『仲間』か。

 ここなら大丈夫。私はやっていける。
 男だったけど、男の心がどこかに残ってるけど、男の頃の人格が戻ってきているけど……それでも今は女だから、だからそれを演じてるだ
け、精一杯演じて自分の役を全うしよう。
 そうすれば、きっと良い方向へ行くはず。

 しかし、香織はどこかで分かっていた。ここの全てのスタッフが有る特定の目的のために作られた幻影であることを。
 期待とはただの願望であり、現実とは絶望である事も。

 そして、友情は裏切られるものであり、信用とは無意味なものでしかない。
 不安や迷いや落胆といった不安定な自らを支えるつっかえ棒の如き何かを探したい……それは自分の向かいにいる存在だと、香織はそう思った。

  ◇◆◇

 それから約1ヵ月後のある日。
 香織は勝人と一緒に宮里から呼び出しを受けた。自宅への一時帰宅に関する相談だ。
 妊娠6週目付近となって香織につわりの症状が現れ始める時期でもある。何かと不平不満をこぼし始める上に些細な事でイライラしているのだが……勝人はま だまだ平気なようだった。
 やはり妊娠判定直後の特別教育が効いてるのだろうか。
 役に立たない男で良いのか、と言われて発奮しなければ妊婦を支えることなど不可能なんだろう。
 どう支えていくか、と徹底的にレクチャーされた勝人にとって自らの心をセルフコントロールする良いトレーニングでもあった。

 しきりに眠い眠いと言う香織をなだめすかして連れてきた勝人だが、宮里の提案は安定する20週目程度まで延期する案だった。
その頃には流産の可能性もだいぶ減り、安心して移動できるとの診断だそうだ。
 香織にとってはあと3ヶ月ほど辛い症状と戦う事になるので、それだけでもブルーだというのにお腹のふくらみを実感し始めてから。外に出ると言うのはたま らなく嫌な感じがしていた。

 やはりジェンダー傾向が男性よりなのかもしれないと宮里は考えていたが、実際は女性機能を持った男性だと考えている香織にとって、
妊婦姿での里帰りは耐えられない屈辱なのかもしれない。

 しかし、自分の両親に会いたいと願う心もまた確かに存在しているのだった。
 香織の揺れる心を見透かすように宮里は追い打ちを掛ける。両親と安産祈願に行ってらっしゃい、と。

 香織は悲壮なまでの覚悟を決めて一時帰宅に同意した。避けては通れぬ道なのかもしれないと考えたのだけど、その道に選択肢が用意されているとは限らな い。

 人生とは行き止まりの道を終点へ歩いていくだけなのだとしたら、私の人生はなにかしら意味の有る物なのだろうか?

 香織の抱えた回答の出ない疑問は日増しに大きくなっていくのだった。


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