容赦なく島を焦がした夏の日差しがどこかへ出掛けてしまうと、夕暮れの風が講堂の窓からそっと入ってくる。
何となく気怠い午後を過ぎて夕餉のメニューが頭の中にチラチラしてくるそんな時間帯。
 講堂の中は自我を保つのに必死になっている一人身のTSレディと、それを狙う狼のような教室組男子生徒の間で目に見えぬ小競り合いが始まる。
 コーヒーキャンディを口に入れて涼しい顔をしている香織の隣で、上気しかけている光子は素っ頓狂な声でハイテンションに何かを説明しようとしている。
しかし、既にそれは文法からして日本語を大きく逸脱した不思議な言語になっていて、聞いている側の香織ですら段々と解読不能になりつつあった。

「光子! タワー帰るよ」
「ウチあかんねんて! あかんねんて! めっちゃおかしいねんアハハ!」
「み! つ! こ!」
「へいきやて! へいきや! なに怒ってんねんて、めっちゃ暑いわホンマ」
「今日は何日だっけ?」
「今日は夏やでしかし、どないしたん? 香織?いけるか?」
「……」

 訳の分からない言葉を毎分6500発(推定)もばら撒きながら、光子は壊れたICレコーダーのようになっていた。
 襟についた埃を払おうと伸ばした香織の手を捕まえてその指を口に入れる光子。
 チロチロと絶妙の圧力で指の腹から先端へ滑らせていく光子の舌使いが、ゾクっとする感覚を香織の指先に伝え背中駆け抜ける。

「みつこ……」
「香織……うちアカンねん……もうアカン……限界や」
「とりあえず指じゃなくてキャンディー舐めとく?」
「ウチ、めっちゃ苦しいんや。ほんま、おかしくなりそうやわ」

 そういって光子はフラフラと立ち上がって歩き始めた。
 男子生徒の目がいっせいに追いかける。香織はあわてて立ち上がると光子を追いかけて抱きしめた。
抱きしめられた光子は甘い吐息を吐き出しつつ、夢遊病の様に廊下を歩きグラウンドへ出て行く。

 今がチャンスとばかりに教室住まいの男子生徒は光子を追いかける。さならがウサギを追いかける狼のように、距離をとって逃げ場がなくなるように追い詰め るのだろうか?

 光子はそれに気がつくそぶりもなく歩いていく。香織はその後ろを追いかけた。

 これじゃ鴨がネギ背負って歩いてるようなものね……

 そう思うだけの色っぽい仕草が溢れる光子を見ながら歩いていたら、いつの間にかグラウンドの片隅、ささやかな観客席の所まで来ていた。
後ろについてきた烏合の衆が如き男子生徒に、心からの敵意を込めた視線を放って追い払った後、座り込んだ光子の隣へ腰を下ろす。

「うち、あの彼好きやねん」
「光子……」
「でもな、彼、絶対タワー来ーへんと思わんか」
「……うん」
「せやから、ウチも色々考えてんのや。どうしたらええんやろって」
「うん」
「さっきからうん、しかゆーてへんやん!」
「……」
「あんな……香織から、ウチ紹介してくれへんか?」
「え? なんで?」
「だってぇ……恥ずかしいやん」

 うっすらと頬を赤らめる光子を見て案外内気なんだと香織は思った。しかし、それが実は光子の気遣いであると気が付くまでにはまだ多少の時間を要した。
先ほどからグラウンドで黙々と真田が走っている。光子の思い人はあの日香織に背を向けて走っていった真田なのだった。
きたる練習試合に向けて集中力を挙げるべく黙々と走る真田はまだそれを知らない。

 観客席を通り抜ける風に当たって光子は少し正気を取り戻していた。セルフコントロールを普段から意識している彼女達のその努力の結果なのだろう。
 既に20周はグラウンドを走っている真田が、喉の渇きに耐え切れず足を止めて水道場で水を飲んだ時、観客席で涼しげに座る彼女達を彼は見つけてしまっ た。
全身汗だくのこの状態で行くとマズイ……真田もそれ位を理解できない訳じゃない。そして何より、香織がおかしくなってしまったら、ここで俺を求めるかもし れない。
そしたら武田になんて申し開きしようか……彼は、真田はそう考えた。

「真田君! ちょっと下まで来て!」

 香織は唐突に声をかけた。
 真田はおもむろにグラウンドの芝をむしると空に放り投げる。風は観客席からグラウンドの方向へ吹き降ろしている。これなら問題ないと確かめて真田は歩き 出した。

「川口……俺になにか用か?」
「違うの……変な期待させてごめんなさい」
「いや、謝らないでくれ。かえって──」
「ごめんなさい」
「で、なんだ?」
「いや、あのね、彼女が……」
「西園寺だろ?」
「ウチの事、知ってんか?」
「あぁ、勿論だとも。で、用ってなんだ?」
「あ……あんな…」
「……」
「えっと……その、あの……」
「どうした?」
「つ……次の試合も頑張って勝ってね!」
「お……おぉよ! 絶対勝つぜ!」
「香織、いこ!」

 そういって光子は走って行ってしまった。
 香織は振り返りざまに真田を見て光子を指差しつつウィンクする。これで言いたい事が通じるだろうか?
 祈るような気持ちの香織だったが、真田は全身が熱くなり今にも海の上を走り出しそうな勢いだった。
 いよいよ俺にも運が巡ってきたかな?と変な勘違いをしている真田だった。好意の元は香織ではなく光子である事を彼は神に感謝した。

 おなじ頃、光子ってシャイだなぁ……と、そう思う香織の前で光子は恥ずかしそうにモジモジしながらタワーへと歩いていた。胸の前で揉手しながらアレコレ 考えている。
 このタワーに住む彼女達の中でも光子の頭の回転の速さは折り紙付で、幼い頃からボケと突っ込みで鍛えられた関西人ならではの、鋭く絶妙な切り返しは周囲 から一定の評価を得ている。
 そんな光子が自分の事でモジモジとしながら思案を巡らせている。それが香織には何とも言えず可愛く見えて仕方がなかった。

 グラウンドから歩いてきた二人がタワーに入ると、ロビーで勝人が英才とトランプに興じていた。
 部屋の主たる相方が居なければ部屋にすら入れない押しかけ亭主たる彼らにとって、このロビーはご主人様待ちする犬小屋のようなものだ。
ただ、その隣に香織の見慣れぬ男が一人座っていたのを除けば。

「おう! 香織! 遅かったな」
「あれ? 練習は?」
「いや、今日は休みだ、休み」
「なんで?」
「明日早起きして遠征なんだ。だから今日は休み」
「ふ〜ん」

 香織が一瞬浮かべた何ともコケティッシュな表情を英才は見逃さない。
 対局相手の僅かな表情の変化ですら見逃さず何かを読みとらんとする彼ら盤上の格闘士にとって、表情とは万の説明をもたらしてくれる物なのだろう。
 彼が見立てた香織の意識、期待と喜び、そして、決して僅かではない警戒。
 それは彼の、英才の隣に座る肩幅のでかい男に対しての物なのだろう。

 見るからに敏捷性の高い勝人の隣にあって何かを封じるが如くに威圧感を見せるこの男は誰??
 見知らぬ相手をじっくり観察する女の眼差しではなく、その人物をじっくりと値踏みして度量を目利きする男の眼差しだと英才は感じた。

「あんまり怖い顔で見ないでくれよ。これでも小心者なんだ」

 途端に勝人が爆ぜるような笑いを上げた。英才も釣られて笑った。

「川口、香織……だよね?」
「そうだけど……どなた?」

 普段なら居丈高の声色で「誰? 名乗りなさい!」と言うのだろうけど、今日はすぐ隣に勝人が居る手前、
余りきつい口調はどうかと一瞬迷って、香織なりに最大限の配慮を織り交ぜて発したのだった。

「俺は遠藤だ」
「サッカー部の?」
「そう、キーパーやってる」
「で……相方は?」
「今、後ろから入ってきた」

 そう言って遠藤は扉を指さした。そこには真美が立っていた。そして、やや遅れて恵美が野球帽を被るがっしりとした小柄な少年と恥ずかしそうに手を繋いで 入ってきた。
 ロビーに女5人男4人。溢れてるのは、光子だけ。

 激ヤバだなぁ……

 香織の脳裏に光子の取り乱すイメージが浮かんだ。しかし──

「なんや、売れ残りはウチだけかいな……」

 そう言って自嘲気味に言う光子がそこにいた。

 ……あれ?

「売れ残りって……のぞみは?」
「あ、のぞみな。吹奏楽部やってんねんて、ブラバンやブラバン」
「ブラスバンドね」
「そう、ほんでそこのペット吹きに夢中や」
「トランペッター?」
「そうやて。アホみたいに肺活量有るから腹筋が凄いんやて」
「ふ〜ん」

 そう言って香織の視線はどこへ行くべきか迷い恵美の隣にいる男に注がれた。

「で、恵美は?」
「あ、紹介します……」

 そう言ってはにかんだまま言葉を飲み込んだ。

「じゃぁ、自己紹介という事で。野球部の本田といいます。本田秀樹です、よろしく」

 そう言って野球帽を取ってお願いしますと頭を下げた。常に礼儀正しくあるべき野球人がそこにいた。
 後にスモールトマホーク(小さな戦斧)と二の名を得て、ワールドシリーズで全米を熱狂させる逆転満塁サヨナラホーマーを放つ男の青春時代であった。

 ホンマに売れ残りやなぁ……

 光子はそう呟いてトボトボとエレベーターに吸い込まれていった。ロビーの8人が皆で見送るのだが、こればかりはどうしようもない。
そして、光子の思い人は香織が袖に振った男なのだ。とんでもない波乱の予感がロビーを支配していた。

  ◇◆◇

 各部屋に行くことなくロビーで談笑していた彼らだったが、夕食時になって食堂へ行った時に驚くべき光景を見た。今までのタワーでは考えられない事態に なっている。

 今までは大きなテーブルに3人ずつ向かい合って6人で食べていたのだが、今はそれぞれの『つがい』が差し向かいで座る形になった。
どこからともなく運び込まれた巨大なテーブルには夕餉のメニューが整然と並んでいて、可愛いい保温ジャーは姿を消しどこの飯場ですか、
といわんばかりの巨大な保温ジャーが片隅に鎮座している。
 重い蓋を開ければ、そこにはふんわり炊かれていたはずの米がたっぷり3升は入っていて、バケツ並の寸胴鍋にはみそ汁が収まっている。
可愛いフィレカツの乗った『女性陣』に対し男の方はどう見てもワラジです、とでも言うべきサイズのカツがどっかりと4枚乗っている。

 そして──女性陣がモグモグと可愛く晩ご飯を頂くそれぞれの向かいで、厳つい男衆がガツガツムシャムシャと何かを争うように餌にありつく。

「おい! 武田に本田に遠藤、俺のカツ一枚ずつやるから食え」
「良いのか?」
「マジか?」
「わりーな」

 ひょいと箸で奪い取るようにカツを貰うと、それを口の中に押し込み更にペースアップして飯を食っている。
それはもはや食事だとか夕餉だとか、そんな上等な物ではなく……戦争。そう、これは闘争なのだと言わんばかりに飯を食っている。
 それを見ている女性陣は途中で食べる気力を失いつつあった。気圧されるとでも言うのだろうか。見ていて気持ち悪い、と言いたそうな雰囲気。
 ただ一人、光子だけが寂しそうに食事をしている。となりにはのぞみが座るはずなのだけど、まだ一緒に練習してるのか戻ってきていないのだった。

「ところで西園寺は?」
 口の中の飯を味噌汁で流し込んだ勝人が口を開く。
「それ最低に行儀が悪いよ」
 香織がたしなめる。
「そうだな、西園寺の相方が興味深い」
 本田の目は興味深々だ。
「西園寺が狙ってるのは誰なんだい?」
 遠藤も相槌を打つ。
「おまえらほんとにデリカシーってもんが──」
 英才はあきれている。

「ウチな……」
 光子はそこで口ごもってしまった。

 居た堪れない雰囲気を救ってくれたのは勝人だった。ただ、その方法は──

「香織!、わりーけど飯をガツンと頼むわ」
 そういってどんぶりを差し出した。
 どっと笑いが起きる。なんとも絶妙なタイミングなのだが、勝人は狙ってやってる訳ではない。

「光子の思い人はね……実は──」
「あ゛〜 香織! 言わんといて!!!」
「だって……」
「だってもあさっても無い!」

 周囲の目が好奇を含んだ眼差しである事に光子は気が付いた。何となくだがここで言わないと一生言えないんじゃないかと光子は思った。

「ラグビー部の真田いうんやて。ウチも昼間に香織に聞いたんや……」

 ヒュ〜っと口笛が鳴る。
「さなだかぁ〜」
 光子は耳まで真っ赤だった。

 ラグビー部の対外試合まで後3日。
 大きな波乱含みになりそうなゲームなのは、何となく皆予想が付いていたのだが……

「おし! ホンじゃラグビー部必勝の為に勝利の女神様をつれて全員集合な」

 すでに勝人は仕切りモードに入った。背番号10を背負う男はこういう時も早い。そしてそれに相槌を打つのはキーパー役の遠藤だ。常に全体への気配りを忘 れない男だけに、
「西園寺の隣だけ一席空けて待つ。で、指定席と書いて全員で真田を指差す」

 それに英才が横から言葉を挟む。

「ただし、負け犬お断りと書いておく」

 すかさず女性陣が反撃、というより光子に気を使う。

「負け犬はダメ。絶対ダメ!」
「なんで?」
「なんでも何もない!絶対ダメ!」
「うん、ダメなものはダメ!」
「ダメです!」

 ポカンとしている男側の中で勝人が口を開く。

「俺と真田で香織を争ってんだよなぁ。さすがに負け犬は……」

 しばらくの沈黙が食堂を支配した。次の一手を誰が打つのか、そんな先手読みの空気が支配している。しかし、そこはさすがに英才である。

「じゃぁ大きく書こうぜ、真田専用って」

 真っ赤になる光子をよそに満場一致の拍手で議案は可決された。
 どこどこのプリンターで大きく出力して……だとか場所の確保がどうだとか、そんな事は光子がポカンとしているうちにドンドン先へと進んで決まっていく。
 もはやどうこう言っても後戻りできないんだと光子が気が付いたとき、観客席の席割まで決まっていた。
汗臭い男が何人も走り回る関係で、彼女達がおかしくならないようにコーヒーを入れたボトルを持って、
お腹が空いた時用にサンドイッチも持って、そして大声張り上げて応援できるようにメガホンも要るなぁ……
 なんだかんだで16歳の少年少女なのである。この手の事が楽しくて仕方が無いのは否定できない事実なのだろう。
気が付けば面白いほどに準備は完了し試合を待つだけとなったのだった。

 食堂から自室に戻った香織は勝人の様子が少しおかしい事に気が付いた。何かを悩んでいるというか考え込んでいるといったふうだ。
 普段であれば、食後はトレーニングに出て行って汗だくで帰って来て、臭いだの汚いだのと香織に散々言われながらも鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅がれ、
挙句に早くシャワー浴びて綺麗にしてきて、ベットで待ってるから、となるのだが……

「なぁ香織……俺、真田の応援に行っても良いのかな?」
「いきなりどうしたの?」
「いやほら……仮にも俺と真田はさぁ、お前を巡って色々とまぁ……アレだろ?」
「それはそうだけど。でも、それが何の関係が?」
「いやほら、一応男のプライドって奴でさ」
「あ゛〜 なるほど、そういえば…そんなのもあったわね」
「おまえ……完全に女だな」
「環境適応って言って欲しいわね、思い出すとつらいし」
「そっか……う〜ん」
「どうしたの?」

 勝人はまた何かを考え始めた。何となくだが香織はその理由が分かる。
 頭の中のどこかに男っぽい思考回路がまだまだ残っているのだろう。
 部分的とはいえ物の判断を男性よりに考える事もあるTSレディの中にあって、記憶を断片的に取り戻している香織はさらにその傾向が強かった。
 う〜んと考え込む香織を勝人が後ろからそっと抱き締める。腰から回された勝人の腕に香織は手を添えて考えている。
 後ろから香織の首筋にキスする勝人のそれは香織へのサインなのだけど、香織は勝人の手をつねって呟く。

「まだダメ」
「なんでだよ」
「シャワー浴びてから」
「後でもいいじゃん」
「だって臭いし」
「それが良いんだろ?」
「……バカ」

 二人して寄り添ったまま窓辺まで歩く。
 眼下遠くに見えるピッチは夜間照明に照らされていて、その上でラグビー部の面々がパス回し練習に励んでいた。
 真田を中心に速攻に次ぐ速攻で一気に距離を埋める作戦なんだ…ろうか…

「なぁ……いいだろ?」
「明日試合じゃないの?」
「そうだけど……」
「それじゃ我慢しなきゃ」
「やだ」
「子供じゃないんだから」
「まだ子供のつもりなんだけどな」
「我慢しなさい」
「やだ」
「……もう」

 そういって腕の中の香織は振り返る。勝人は香織の首に腕を回し逃げ場を封じてから唇を奪った。

「いいだろ?」
「うん、いいよ……」

 明かりを消して二人だけの情事にふける香織と勝人。タワーの各部屋で同じような展開になっているのだと香織は思った。
 自分を押し倒して体をまさぐる勝人を見ながら、快感に身をくねらせて甘い吐息を吐きながら、窓の下とおくを眺めている光子を思っていた。

   ◇◆◇

 周囲を海に囲まれた島の朝は、夏ともなると海霧によってモヤが掛かる不透明な朝を迎える事が多い。
弱々しく登る太陽から赤みが失われる頃、学生ホール前付近にサッカー部15人が勢揃いした。
 いまだ1学年のみしか居ないこの学校では、生徒数の関係で少人数の部活運営が要求されている。
 まぁそれ故に、誰でも試合に出られる関係で嫌でも実力を伸ばす……いや、伸ばさざるを得ないシステムになっているのだが。

「じゃ、気をつけてね。勝ってきてよ」
「おーけーおーけー。ま、軽くひねってくるよ」
「油断すると足元すくわれるよ」
「俺を信用してないな?」
「志賀君だって負ける事もあるんだから」
「わかってるよ、マジで」
「負け犬は嫌いだからね」
「……任せとけって、今日のゲームは日本代表になるための第一歩さ!」
「ワールドカップへ、だよね」
「そうだ」

 男子生徒を送り出すアパート組女子生徒達に混じって香織は勝人を送り出した。
 その隣には真美が心配そうな顔で遠藤を見送っている。
 バスの窓から投げキッスして笑顔で出て行くサッカー部を見ながら香織は思った。光子はどんな気持ちでいるんだろう、と。

 午前中の退屈な授業が終わって食堂に生徒達が集まってくる時間帯。食堂のVIPエリアでは沙織が英才と碁盤を挟んで座っていた。
 モシャモシャとサンドイッチを食べる沙織の向かいで英才が握り飯を頬張りながら石を打っている。
 盤上で押しつ押されつの攻防をしながら沙織は本を見ていた。どうやら英才が次に対戦する相手を二人して研究中といった雰囲気だった。

 香織は光子と二人して昼食を取っている。沙織と英才のペアに気を使って、ちょっと離れた位置から二人を見守っているといった感じだ。
僅かに残ったハンモック暮らしの男子生徒が、何人も香織と光子の所へ来てはちょっかいを出していく。
 悪い虫が付くと困るから……と、そんな事を言いながら香織は光子を守っていたのだが、そこに彼が現れて不躾なハンモック組みの男子生徒は蹴散らされてし まった。

「西園寺……あ、川口も一緒か」
「真田君」
「真田、君……どっ、どないしたん?」
「いや、まぁ……なんだ、その……」
「ちょっと待って」

 そういってやおら香織は立ち上がった。

「ちょっと図書室へ行ってくるから……ごゆっくり」

 ニコっと笑って香織は行ってしまった。やたらと甘酸っぱい雰囲気に包まれて真田は光子の真向かいに座っている。
 周囲から口下手でシャイと思われている真田だが、はたして上手く行くのかどうか。

 沙織は向かいの英才に目配せして顎でそれとなくサインを送った。英才はチラッと見てからニヤリと笑いウィンクする。
 やや遅れて食堂へ入ってきた恵美は本田と一緒だが、ランチセットを受け取ると食堂から出て行ってしまった。
 光子に助け舟を出せる存在はここには誰も居ない関係で、自力での対処が求められるのだが……

「あっ、あんな……」
「おっ……おぉ……なんだ……」
「いや……う〜ん……」
「……うん……うん」

 まったくと言っていい程会話になってない。

「いつやったか……タワーの前に来た事あるやろ」
「あぁ……」
「あん時な……ウチも見てたんや」
「そうか」
「それでな……ウチ……」
「……俺も見たよ」
「ホンマ?」
「あぁ、川口もそうだけどな。タワー組は美人揃いだから……」
「だから? なんねん?」
「あ……いやまぁ、その……才色兼備で……」
「はっきり言ってや……」
「だから……俺も……その……気になって……」
「気になって……どうしたん?」
「すっ……すっ……すっ……すっ」
「す?」
「す……#&%@*+」

 真田は消え入りそうな声で何かボソボソと呟いた。それがちゃんと聞き取れなかった光子だが言いたい事は伝わっている。
でも、その良く聞き取れなかった一言にどれほどの魔力が詰まっているのか、それは二人とも良く分かっている。
 あの日、本人の望まぬ悪魔の法によって大きく人生の舵を切った光子だったが、生まれついた性格と育った環境による考え方の根本は、
魂の器たる姿身がいかに変わろうと本質が聊かも変化しない事を示していた。

「お願いやから……はっきりゆうて」
「いやだから……つまり……」
「女は聞こえるようにゆーて欲しいんよ」
「西園寺……」
「どうせなら光子って呼んで欲しいねん」
「……良いのか?」
「いいけど、それやったらその前にはっきり言ってからや」
「……だから、俺は……」
「あ゛〜。もう、あかんねん!」
「だから! おれは!」
「ウチは! ウチはめちゃくちゃ好きやっちゅうてんねん!」
「西園寺……」
「好きなんや! なんで分かってくれへんの?」
「すっ……」
「アホ! ボケ! カス!」
「……」
「はっきり言えん男は嫌いや」
「……すまない」
「あんた……キタの街が絶対似合うねん……ウチ、あんたとキタの街を歩きたい」

 そこまで言って光子は顔を両手で隠してしまった。恥ずかしいというより情けないというほうが正しい雰囲気だった。

「俺も──」
「ウチは好きやねん。めちゃくちゃ好きやねん」
「俺も好きだ」
「……ホンマに?」
「あぁ、好きだ!」
「……夢見たいやわ」
「世界で一番好きだ! 光子が好きだ!」
「好きやから?」
「だから俺を呼んでくれ! 誘ってくれ! おれはお前のために尽くしたい!」

 両手で顔を隠す光子だが、僅かに開いた指のスリット越しに見えるその目にあやしい光が灯っているのを沙織は見つけた。
 待ちに待っていたシチュエーションなのかもしれない。光子の精一杯の配慮、皆はそう思っている。しかし、この場でその真実に気が付いたのは沙織だけだっ た。

「呼ぶって……誘うって……どないしたん?」
「俺は光子の部屋に行きたいんだ……いいだろ?」

 そこまで真田が言った時、光子はゆっくりと両手を広げた。
 そして……両手で隠していた光子の破顔一笑を見たとき、真田はやっと理解する事が出来た。

「やっと……やっと言わしたで」
「さっ 西園寺……」
「あかんやん……み・つ・こ、ってよばなぁ〜あかんでぇ〜」

 光子はニヤ〜っと悪魔の笑いを浮かべている。それを見て英才は沙織の耳に口を寄せて呟く。
「女ってこえぇ〜」

「ウチ、聞いたで、絶対聞いたで。今更前言撤回しーへんよな?」
「あ……」
「いやぁ〜、ウチ、め〜っちゃ! 嬉しいわぁ。ホンマ嬉しいわぁ〜」
「う……」
「あれやろ、お願いするよりされるほうがエエしなぁ〜」
「いや……」
「ほな、今日の夕方、タワーの前で待ってるやさかいに」
「西園寺……いや……その、光子……狙ってたのか?」
「当たりまえだのクラッカーやで! きーへんかったら──」
「そしたら……」
「ラグビー部の男は据え膳食えぬ甲斐性無しやったって言いふらしたるで」
「おれ……なにか根本的に間違えてた気がする」
「手遅れやな……ほな、ダーリン! ウチは待ってるでぇ〜」

 ニヤケっぱなしで見つめる沙織、呆れた表情で見つめる英才。男と女と達引きであった筈なのだが、いつの間にか男同士の意地の張り合い状態になっていた。

 英才は盤上の死闘を忘れて呆然と見ている。何と言ってよいやら、と思いつつも、

「あれだな、押しかけ亭主にさせてもらうって感じ」

 と、言うのが精一杯だった。
 ニヤリと笑いながら沙織は答える。

「とーぜんじゃな〜い」

 英才は苦笑いするしかない。

「光子も上手く行きそうな事だし……」
「事だし?」
「5勝1敗でタワー組は女の勝ちね」
「元男の勝ちって言うべきじゃ……」

 首を右に向けて光子を見ていた英才が正面の沙織を見たとき、スナップの効いた良い角度で英才の左頬に沙織の右手が入った。

 ブワッチ〜ン!

 再び右方向へ強い力で首を回された後、呆然と沙織を見返す英才。沙織はニコッと笑いながら事もなげに言う。

「それは私達には最も失礼な言葉! 次はハンモック暮らしへ強制送還ね」
「はい、スイマセンでした……」

 尻尾を丸めておとなしくなる犬状態の英才なのだった。

 ところで……5勝1敗のその一つの負けは誰だ?って聞きそびれて、英才はそれが気になって仕方が無い。

 しかし、これ以上アレコレ詮索すると命の危険があるかも……彼はまじめにそれを心配した。やはり、元男と言うのは伊達ではないのかもしれない。
 ドアの裏側には香織も立っていた。全部上手く行ったかな?と、彼女(?)なりに心配していたのだったが、それも杞憂だったようだ。

 ラグビー部全員のメンツと名誉に掛けて、真田はいかなる理由があるにしろタワーへ突入しなければならなくなった。
素晴らしく頭の回転が速い光子の徹底的に練られた作戦は、香織や勝人の名誉をも守る為の配慮だった。

 食堂を三々五々出て行く生徒に混じって香織は食堂を離れた。彼女は今、生徒サロンの大画面でリアルタイム中継されているサッカー部の試合を眺めている。
周囲にはアパートから選手を送り出した女子生徒や、サッカー部に友人を送り出した他部の男子生徒も声援を送っている。
ふと風に乗って流れてきたブラスバンドの練習が嫌でもその雰囲気を掻き立てていた。

 午後の課業を終えた夕暮れ時、もうすぐ夕食と言う時間になって光子はグラウンドへと足を運んだ。何か狐に抓まれたような真田はせっせとグラウンドを走っ ている。
 観客席へと腰を下ろした光子の隣に香織はそっと座った。沈黙のまま二人でグラウンドを見ている。無言の会話を二人で楽しんでいるような、そんな雰囲気が そこにあった。

 突然何かを思い出したように無線のスピーカーから夕食30分前の合図になっている音楽が流れた。
この音楽を聴いてシャワーを浴び食堂へ集合するのがこの学校では暗黙の了解になっている。
光子はスッと立ち上がって香織に手を差し出した。香織はその手を取って立ち上がる。笑顔で互いの顔を見つめながら香織はやっと口を開いた。

「ありがとうね。なんか……凄く救われた気がするよ、ほんとに」
「作戦大成功やったね。これで香織も武田君も悩まないですむってもんや」
「しかし、ここまでするとは思ってなかったよ」
「まぁ、なんちゅうんや? 男の手を引いてお願いしたんは香織だけやで」
「いいじゃん! それよりご飯食べに行こうよ!」
「そやな」

 光子はグラウンドの真田に声をかける。

「だーりーん! 晩飯やでぇ〜! シャワー浴びて食堂へ集合や! いくでぇ〜!」

 信頼しあえる大切な仲間を見つけた香織の安心感は、何物にも変えがたい暖かな光となってスポンジ状に歯抜けている記憶の隙間を埋めていく。
タワーに住むほかの5人が、それぞれに一番心配していた記憶問題による人格崩壊を防ぐべく、最大限の心遣いをしてくれているのが嬉しかった。
 食事時、初めてフルハウスになったタワーの食堂。12人の男女がそろった始めての夜。夕食の献立を運んできた食堂のおばちゃんはフルハウスとそう呼ん だ。
試合を終えて帰ってきた勝人も、トレーニングを終えてシャワーを浴びた真田も皆そろっている。

 他愛も無い話で盛り上がり、モグモグとかわいく食事する女性陣が向かいで闘争を繰り広げる男性陣をアレコレ茶化して笑い、紛れも無く幸せな空間がそこに はあった。


 食後の歓談は食堂からサロンへ移動するのもここでの暗黙の了解。皆でサロンへ行きアレコレ話をするのも楽しいひとときだ。
そんな場にいつも突然入ってくるのはタワー担当の宮里だった。
 政府の管理官である彼女の仕事はTS法に基づく交配計画そのものと言っていいだろう、そのためにアレコレと策を弄する疲れるポジションなのだ。

「歓談中にお邪魔するわね」

 いつもそう言って入って来る宮里。今日は手に6人分の封筒を持っていた。

「これは女の子宛てよ、夏休み2週間の間に5日間だけ一時帰宅できるから」

 そういって封筒を配り始める。それぞれの女子生徒が封筒を受け取り開封するのだが、そこには恐ろしい内容が書かれていた。

「そこに書いてある通りだけど、女子生徒の相方は女子生徒の家に同伴する事」

「えぇ〜! マジっすか!!」
 男子生徒は文字通り石になっている。事もなげに言葉をつなげる宮里は笑って言う。

「当たり前でしょ。ちゃんと相方の親御さんに挨拶してきなさい」

 封筒の中身は自宅までの地図と移動用の切符、そしてそれぞれに多少の路銀。
 あとは、一時帰宅の心構えについて書かれた小冊子。
 それまでの人生と一気に変わってしまった自分を支える何かを見つけてきなさい、というカリキュラムの一環なのだろうけど、
要するに相方となった交配相手が人生の伴侶となるように差し向ける作戦でもあるのだろう。

 男子生徒には非常に気の重い問題であるが、彼らもまたこれから途轍もなく重いものを背負って歩いて行かねばならないのである。

 TSレディを嫁にとって生きて行く事の重さを理解させること。これが後に悲劇をもたらす最後のトリガーになる事を、宮里も女子生徒も、そして男子生徒達 もまったく理解していなかった。

 あ、やっぱりウチは関西人やった……とか、私の出は予想通り静岡だった……など、そんな事で盛り上がる光子やのぞみを横目に、
自分の生まれ育った町を何となく思い出している香織は気が重い所の騒ぎではなかった。

 サロンから自室に戻った香織は勝人に肩を抱かれて震えていた。
 とにかく怖かった。自分の正体が白日の下に晒されるのが怖かった。
 自分で諦めていた筈の様々な物事を思い出させるところへ。

「そんなに震えるなよ……俺が一緒に行くさ。心配するな」

 そう言って微笑む勝人。香織は知らずに泣き始めてしまう。その理由は勝人も分かっている。
 あまりに楽しかった幼い日々の記憶。二人の脳裏によみがえってくる一人の女性の存在。

 運命の日は近づいていた。


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