さっきまでの空気がウソのようだった。
ぼくの心も軽氣功でも会得したみたいに軽くなり、会話がはずむ。他愛のない話でも、明としゃべっていると楽しくなるのだ。
「おっと」
ゴトンと何かが木床に落ちた音がして、明がテーブルの下に潜ろうとしていた。
「悪い、すぐ拾うわ」
どうやらナイフかフォークかを落としてしまったらしい。座ったまま取れないところを見るに、深いところまで転がってしまったようだ。
「拾えた?」
──ゴッ!
それに対する返事はなく、代わりに痛そうな音と一緒に脚をボルトで固定された木製テーブルが震えた。かなりの衝撃力だ。
「ど、どうしたの!?」
「ちょっと頭を上げたらぶつかった……」
頭をさすりながらのそのそとテーブルの下から這い出てくる。手にはフォーク。ずいぶんと手痛い代償を払って拾ったようだ。
その姿がすごく面白くて、不謹慎ながら思わず噴出してしまった。
よく考えてみれば、ぼくの気分は明の一挙手一投足で変わっている。
……ひょっとして明の手のひらの上で踊らされてる?
ペトルーシュカにでもなったのかと頭上を見上げるも糸はないし、ぼくを操っている人もいないようだ。
「フォーク取り替えるついでにちょっとトイレ行ってくるわ」
「あ、ぼくも」
こういうのはついでだ。ぼくが待つぶんにはいいけど、相手を待たせるのはたとえ数分でもよくない。
まだ接待のことを引きずっているけど、これくらいならいいだろう。
明に続いてトイレに入り、隣に位置取る。
……
……
「……なあ、陽はあっちじゃないか?」
何かおかしいと思った。便器の前に立って、ファスナーの位置を探そうとして両の手がスカートの布地の上を右往左往していた。
「ご、ごごごめん!」
慌ててもうひとつの入り口からトイレに入る。
個室だけのトイレはやっぱり見慣れない。
ショーツを下ろして用を足してあそこをトイレットペーパーで丁寧に拭く。この一連の所作も随分と手馴れてしまった。
「それにしても、これはやっぱり……」
下ろしたショーツの色が目に入って、どこかで嫌な音がしたかのようにテンションがガクっと下がる。
選択肢がなかったとはいえ、こんなのをはいてくるべきではなかった。
「こっちも……」
襟首からスウェットのなかを覗く。陰よりもまだ黒い下着が胸に収まっている。
そもそも、上と下で色が違っていったい誰が見たり咎めたりするというのだろう。
そう考えると、色を上下で揃える意味はまったくなかった。改めて思う──失策だ。
でも着け心地はいい。問題があるのは色とデザインだけだ。
ということは、
(今度は同じ素材で違うのを買おうかな)
まっとうな色やデザインなら何の問題もない。
楽しみができたと思う反面、現在の懐事情を思い出して、その日が遠いところにあるのはなんとなくわかった。
「最後はやっぱこれだろ」
明が指し示す先にあったのは、この遊園地名物の大観覧車だった。
数年前までギネス記録を持っていたという話で、ヘタなビルよりも高い。パンフレットには1周30分かかるとあった。
「絶対イヤ!」
「別に絶叫系でもないし、なに怖がってんだ?」
「ぼくが高いところが苦手なの知ってるでしょ……」
ぼくは高所恐怖症だ。デパート程度の高さでも、ガラス張りのエレベーターに恐怖感を覚えてしまう。
それなのにギネス級の大きさを誇る観覧車に乗るなんてことは考えられない。
ちなみに絶叫系もダメだ。そういうのは総じて高いし速いし、二重苦にしかならない。
「そう言うなって。名物なんだし乗らないと損だぞ?」
「ダメ! 絶対無理!」
ぼくにとっては乗ることが損だ。
「じゃあ、これで全部チャラってことでどうだ? これに一緒に乗ることで接待したことにする。それだと完璧にスッキリできるだろ」
意地悪そうにニヤリと笑って提案をちらつかせる。さっきまで接待するなと言っていたのに、あっさり発言を翻した。
まだぼくがそういう雰囲気で臨んでいたことを見抜いていたようだ。
昼食のときにジュースをぶちまけたことも、結局奢れなかったことも、楽しませると決めていたのにまったく接待できなかったことも清算して、
明日からまた通常に戻れるというのなら……
ここは清水の舞台から飛び降りる気持ちでいくしか、後腐れをなくせそうにない。
「……わかった」
いっそのこと目をつぶっていればいい。それから『ここは地面の上だ』と思い込み続けていれば、20分くらいすぐに過ぎて終わっているはず。
それまでの辛抱だ。とてつもなく長く感じるだろうけど……
係員さんの手によって扉がロックされる。途端に閉塞感が襲ってきた。閉所恐怖症も軽く患っているのかもしれない。
ゆっくりゆっくり斜め上に登って──
(やっぱり怖い!)
まだ15度も登っていないのに早くもギブアップ寸前だった。ゴンドラは地面からははるかに離れ、それでもまだ足りないとばかりに無慈悲に高度を上げる。
「見てみろよ、陽。いい景色だぞ。──あ、人がゴミのようだ」
明がどこかの大佐のようなことを言うけど、それに応えている余裕はない。まして下なんか見れるわけがない。
それにここは地面の上だ。ここはリリパットでもないし地面の上にいる限りミクロな人は存在しない。しないったらしない。
……
……
どこまで上がっていくのだろう。もう10分は経ったかなと思って薄目を開けると、まだ4分の1も過ぎてなかった。
ゴンドラの中は精神と時の部屋になっているに違いない。時間の経ち方が遅すぎるし、心なしか息苦しいのも理由がそれなら納得できる。
(風、強くない?)
さっきからひっきりなしに風が吹きつけ、きしきしと鉄柱が壊れる一歩手前みたいな音を発している。誇張でもなんでもなく、本当にそんな音がするのだ。
しかも耳に届く頃には拡声器を通したみたいに大きくなって、頭のなかに反響する。
天気予報によれば、このあたりの地域では台風によって夕方から風が強くなるという話だった。いまはもう4時だ。まだ明るいとはいえ夕方に属する。
やっぱり乗るんじゃなかった。
風が強い日に風当たりの強いものに乗るなんて自殺行為だ。地面の上ならまだしも、こんなに高いところにいたら、もしものことがあったら助からない。
不安が心を塗りつぶす。杞憂でも絶対に起こらないわけではない。思考がどんどんマイナスに傾く。もしぼくがポルヴォーラだったらとっくに爆発してるほどの
緊張感。
「そんなに怖いんだったら、俺が抱きしめてやろうか?」
「……うん」
冗談かどうか深いことは考えず、即決で明の提案に乗る。それで怖くなくなるのだったら、いくらでもやってほしい。
明が向かい側のシートからぼくのすぐ横に移動して、すぐにふわっと包み込まれた。
……でもちょっと心許ない。
「ごめん、明。もっと強くしてくれる?」
『ふわっ』が『ぎゅー』という感じになる。うん、これなら大丈夫だ。なんだか安心できた。ここが高い所だと忘れさせてくれるような安定感がある。
「ありがと。明のおかげであんまり怖くなくなった」
閉じていた目を開けて明を見る。やはり持つべきものは親友だ。その親友の顔は、
「明?」
すぐ目の前にあった。その一瞬あとにぼくの唇に何かが押し当てられる。
予想外すぎて思考が止まった。ほんの数センチのところに明の顔があった。触れられそうなくらいに近い。
いや、触れていた。
接点のひとつはぼくの唇。もうひとつは──
明の顔が離れる。
触れていたのは明の唇だった。
「な、に……?」
なんだろう、これ。なんでぼくは明とキスなんかしているんだろう。さっぱりわからない。前後とつながらない。
「なにって、陽はそのつもりで来たんだろ?」
そのつもり。しばらく考えて、ひとつのことに思い至る。
デート。
絶対ありえないところにあると思っていた選択肢。
まさか明に限ってそんなことを考えているはずがな──
「こんな下着はいて……。期待してたんじゃねえのか?」
スカートをめくられた。スカートの下にあるのはあの色のショーツ。
明の行動のひとつひとつがぼくの予想を超えていた。次に何をするのかまったくかわからない。
「こ、れは……たまたま他が洗濯中で……」
よりにもよってこんな色のを見られてしまった。赤面するのが自覚できた。必死に取り繕うとするけど、しどろもどろで口がうまく動かない。
でも、なんで明はぼくのはいている下着の色を知って……あ、あのときだ。
昼食のときにフォークを落として、それを拾うためにテーブルの下に潜った、そのとき見たに違いない。だから、テーブルに頭をぶつけたのだ。
「ダメなんだよ、陽、俺もう抑えきれねえ。第一、無防備すぎなんだよ。手を繋いできたり一緒にトイレに入ろうとしたり……昨日だって目の前で着替えたりし
て」
「ぼくは……そんなつもりじゃ……」
ぼくは男のときのように振舞っていた。女に慣れたとはいっても、まだ男でいようとしていた。
その男として普通の振る舞いが、女としては無防備だったというのだろうか?
(つまり明はぼくのことを女として見てる?)
「陽がそうじゃなくても、こっちはそう受け取っちまうんだよ! 今だって誘ってるようにしか! ……もう陽を男として見れねえ」
決定的な一言だった。
ぼくは女になってしまって初めて明に会って話をしたとき、ぼくのことを男として受け入れてくれたと思っていた。でも、それは違っていたのだ。
いや、時間が経つにつれて変わってしまったのかもしれない。少なくともいまはぼくを完全に女と見なしている。
いつもの飄々とした表情はどこかに消え、自制をなくしていた。何を考えているのかわからない。そんな顔を怖いと思った。
でも怯んでばかりはいられない。脱がそうとする手を遮りながら、なんとか制止しようと試みる。
「この病気が感染(うつ)るかもしれないからダメだよ。明だって女の子になるのはイヤでしょ?」
明の動きが止まった。
もちろんこれは嘘だ。完全な口から出任せ。
でも、ぼくが女になった原因は『原因不明の奇病』という扱いになっている。
感染源も感染ルートもわからない以上、迂闊な『接触』は保身を考えるなら絶対にできないはずだ。
けど、明はぼくの予想を裏切って行為を再開する。
「明、聞いてなかったの!?」
「もし俺が女になっても、それはそれでいいさ。むしろそっちのほうがいいかもしれねえな。そうすりゃ陽の苦しさとか悩みがわかって助けになれるかもしれね
えしな」
長年一緒にいたから、よくわかった。
明は本気だ。
口に出したことを本気で心の中で思っている。建前や方便がまったくない、紛れもない本音であり本心だった。
だとしたら、ぼくはもう明のこれからを止められない。それも経験上わかる。
なんと言おうと聞く耳を持たないし、行動を制止しようとしても止まらない。それだけの覚悟を決めている。
抵抗を諦める。
急に身体の力が抜けたことに明は訝しげな表情でぼくを見る。
「……いいのか?」
たとえここで首を横に振っても、明はやめないだろう。
無言を肯定と受け取り、明が本格的に始めた。